欧米では「能無し」扱いされる潘基文国連事務総長

ソ連崩壊で多くの国に自由が甦った1989年、天安門広場では国連の象徴である自由と人権を弾圧する流血の惨事が起きていた。

潘基文国連事務総長は、その広場で開催される「抗日勝利式典」に出席して学生たちを踏みつぶした戦車を閲兵すると言う。

反自由、反人権に加えて反日の色彩が濃いこの式典へ参加を決めた潘基文国連事務総長の、日本での評判はすこぶる悪い。

しかし、2006年に潘基文氏が国連事務総長に選出された当時の日本では、麻生外相が「我々もアジアとしても大変誇らしい」と称賛する一方、日本の外交当局も“外交のプロ”だと高く評価していた。

この移ろいやすい日本の外交専門家の評価に比べると、欧米の潘基文氏への論評は一貫して厳しく、「無能」「縁故主義者」「買収体質」と言う当初の批判がそのまま定着した観がある。

厳しい批判の先頭を切ったのが、2006年に発表された保守系有力シンクタンクのAmerican Enterprise Institute研究員Alykhan Velshi氏が発表した「国連は、又も盗人を事務総長に選出する気か?」(Will the UN pick another crook?)と言うタイトルの論評であった。

この厳しいタイトルの背景には、潘基文事務総長の前任者であったコフィ・アナン事務総長の息子が絡む国連石油食料交換プログラムの金銭スキャンダル事件や国連の巨額な無駄使いがあった事は間違いない。

Velshi氏の潘基文批判は、麻生外相や日本の外交当局の主観的な礼賛論とは異なり、多くの具体的事実を挙げて事務総長としての資格に疑問を投げかけたもので、潘基文氏が国連事務総長に就任して間もなく韓国の元国連大使を国連の特別代表に任命したり、主要な国連ポストに韓国人を多数起用するだけでなく、インド人の娘婿を幹部に抜擢するなど、傍目にも行き過ぎた縁故主義が目立ち、これに不満を持った国連職員組合が「親類縁者や友人を優先する人事政策批判文書」を採択する事態にまで発展した事からも、Velshi氏の批判の妥当性が証明されている。

潘基文氏の無能ぶりは殆んどのメディアが一致して指摘している事で、中には「名誉学位の収集と誰の記憶にも残らない声明の発表に熱心」だと嘲笑したり、「指導力、存在感、管理・調整能力に欠けている点」では歴代事務総長の中で最も傑出しているとまで酷評した記事もあった。

更に又、有力な人権団体から「人権侵害国や国際的な地位が低い国々には強く出ながら、中国のような大国には何もしない」と、韓国式の事大主義思想を批判されたと言う報道もあった。

2010年7月には、リベラル系の英国の大手紙ガーデイアンが「存在不明人間(透明人間)潘基文国連事務総長の活動への動揺広がる」(Disquiet grows over performance of Ban Ki-moon, UN’s ‘invisible man’)と言う長文の論評を載せ、「潘基文国連事務総長の講演会に出席したワシントンのエリートたちは、空虚な言葉をくり返す余りの内容の乏しさに、携帯のメールをチェックしたりあくびをしながら堪えていた」と言うエピソードを引用して、潘基文事務総長は国連発足以来の歴代事務総長の中で最低の2人に入ると厳しく批判した。

因みにこの2人とは、最悪が事務総長退任後にナチスに関与していた事が判明して多くの国から入国を拒絶されたヴァルトハイム氏で、最低(能なし)が潘基文現事務総長の事である。

2013年9月に入るとニューヨークタイムズに「潘基文さん、あなたは一体どこにいるの?(Where Are You, Ban Ki-Moon?」と言う記事が載り「6年半前に世界で最も脚光を浴びる職に就いた潘基文氏は、姿をくらましてしまったのかと思うほどに目立たなくなり“ 無力の傍観者”とか“行方不明者”とまで呼ばれる国連史上最悪の事務総長と言う評価が確立した。その結果、2010年には有力外交評論誌から辞職を迫られた」とも指摘された。

この記事は更に続けて「潘基文氏も自分の実績が上がっていない事は認めているが、残虐行為に強力に反対する意見も出さず、残虐行為対策担当の特別代表の任命が1年も遅れるなど、決断力の欠如は酷すぎる。

働き者で、謙虚で、少人数グループでは人柄の良さが出ると言う評判だったが、英語が苦手(韓国外務省の評判では英語の達人と言う事になっている)な上に、意思の伝達が不器用なため、意図する事が相手に中々伝わらず、個人的な集まりでも歯車が噛み合わない事が多いと言う。

彼の責任逃れの強さは、国連平和維持部隊が持ち込んだコレラ菌に感染して8,000人のハイチ人が死亡した事件でも、最後まで国連の責任を認めず、挙句の果てに外交特権を行使して犠牲者への保証金支払いを拒否したくらいである。

とは言うものの、潘基文氏の前任者であるアナン前事務総長の圧倒的なカリスマと弁論に辟易した安保常任理事国が、次期総長に求めた条件が無能な人物であった事を思えば、潘基文氏は100%その期待に応えた人物であり、彼だけを責めるのは酷である」と強烈に皮肉っていた。

拙稿ではその多くを省略したが、これらの潘基文批判記事には同情的なコメントも多く引用する公正さを示しており、中には2007年に潘基文事務総長に広報担当事務次長に登用された赤阪清隆氏の「欧米では指導者には雄弁と明確性が求められるのに対し、アジアでは潘基文事務総長のような含みの多い立ち居振る舞いが『賢者のたしなみ』として尊重される。欧米の潘基文批判の根底には東西文化の衝突という側面がある」と言う弁護や、潘基文氏が外務省の若き事務官として留学したハーバード大学行政大学院の恩師であったJoseph Nye教授の「突出したカリスマを持つアナン氏の後を継ぐのは容易ではないが、あの難しい安保理事会メンバー諸国との関係が上手く行っている事は、潘基文氏の貴重な才能である」と言う擁護発言も載せている。

記事の内容の良し悪しや好き嫌いは別として、普遍的、本質的問題に興味を持つ欧米メディアと、一過性事件に異常な興味を示す日本のメディアや知識人との見方の違いや、どちらかと言うと欧米より潘基文事務総長に近い価値観を持った日本の外交官の言動を目にするとき、これ等の違いを認識する事が国際問題を語る時に忘れてはならない要素である事を痛感した次第である。

注:筆者が意識的に批判部分に重点を置いて取り上げた記事の全体にご興味のある方は、下記のウエブを御参照願いたい
(1)Will the UN pick another crook? By Alykhan Velshi
(2)Disquiet grows over performance of Ban Ki-moon, UN’s ‘invisible man’  The Guardian
(3)Where Are You, Ban Ki-Moon? The New York Times

2015年8月31日
北村 隆司