北京という地名の変遷

2015年09月03日 08:16

北京の名称の変遷

今日は北京で対日戦勝記念軍事パレード。この機会に北京という名称の変遷についてちょっと書いてみたい。

北京は昔から北京と言ったわけではないし、常に首都であったわけでもない。ごく手短に地名の変遷を紹介することにする。
北京は古い都ではあるが、中国全体の首都としての歴史はさほど古くないし、一貫して北京と呼ばれていたわけではない。  
初めてここに都をおいたのは元寇の張本人元朝五代フビライカーンの時(1271年、日本では北条時宗の時代)である。南宋をほろぼし全中国を支配下に治めるとこの地に都を定めた。当時の名称は大都。
 
ご存知マルコポーロが来たのはこの頃。彼は創建(日本では源平争乱時代)間もない北京郊外の盧溝橋を見て「東方見聞録」の中で「世界無比」とその美を讃えているので別名マルコポーロ橋ともいう(1937年7月7日支那事変の端緒となった盧溝橋事変が勃発した地でもある。)。
 
マルコポーロのことは元朝の公式記録元朝秘史に出てこないのでフビライに重く用いられたという辺りはいささか疑わしいが彼がこの当時北京に来たことは間違いない。
ところでマルコポーロはなぜ日本をジパングと紹介したのだろう? 当時の中国語で「日本国」は「ジーパンクオ」、従って彼の耳にはジパングに聞こえたはずだ。

次の明朝の開祖朱元璋は南京を根拠としていたので、都を南京に定め、大都を北平にかえた。次いで帝位を簒奪した三代永楽帝は燕王であったので南京からここに遷都して初めて北京と称した。 今に残る故宮が王宮として作られたのはこの頃。もっとも中の宝物は、蒋介石が台湾に逃れる時、政権の正統性の証しとばかりに持ち去ったので、今はあまり大したものはない。  

明の跡を継いだ清朝は、最初都を満州の瀋陽においたが三代順治帝の時長城を越え、全中国の支配者となると北京に遷都した。以後辛亥革命によって清朝が滅びるまで北京が清朝の都であった。 

清軍の「長城越え」「李自成の三日天下」「呉三桂と愛妾陳円円」の話は劇的要素に富んでいて非常におもしろい。 
陳円円を李自成軍にとられたために、腹いせとして呉三桂は清軍を山海関(長城が東で渤海湾に尽きるところ)を開けて引き入れ、李自成はあっという間に帝位を追われ、清朝の天下となったのだから、陳円円は傾国(国を危うくするほどの美女をいう、楊貴妃など)の名にふさわしい。これには異説もあるが、一応そういうことになっている。 
呉三桂は、女のために国を異民族に売った男として中国史上最も評判が悪い人物の一人。これは司馬遼太郎最後の小説「韃靼疾風録」に詳しい。これ以後司馬は小説というスタイルを捨てて専ら史論(「この国のかたち」、「街道を行く」等)という形で著述するようになった。 

尚、日本にゆかりのある明朝の遺臣としては水戸光圀(黄門)に招かれた大学者朱瞬水と台湾に拠って明朝の回復を企てた鄭成功(母は日本人、近松門左衛門の「国姓爺合戦」の主人公)の二人が最も有名。 朱舜水は後楽園の命名者でもある。後楽は成句先憂後楽から。「為政者たるもの、憂いは民に先んじ、楽しみは民に後れなければならない」という意味。国会議員中後楽の意味を知っている人が何人いるのだろう。

辛亥革命によって成立した中華民国は最初ここに首都をおいた(1912~1928)。清朝末以来の中国近代史を学ぶには映画「ラストエンペラー」がいい。これは文革時代まで扱っている。もっともある程度予備知識がないとこの映画を理解するのは難しいかもしれない。
この映画では作曲家の坂本龍一が大杉栄虐殺事件の当事者にして満州国の闇の帝王、そして満州映画理事長として戦後日本映画界に大きな貢献をすることになる甘粕正彦の役で出ている。 

次いで南方を基盤とする蒋介石が北伐の成功により一応の統一に成功すると、都を南京におき、北京は再び北平に戻した。南京と同格に聞こえるのを嫌ったのであろう。北平の時代は長くなく支那事変勃発に伴い日本がここを占領すると再び北京に戻した。北京原人の頭蓋骨はこの混乱の最中で失われた。この話は映画にもなっている。 

1945年日本の敗戦に伴い三度北平に戻し、49年共産党が政権を取ると三度北京に戻して首都として現在に至っている。

ところで遷都が愈々現実味を帯びてきた。理由は、黄砂、水不足、大気汚染。

青木 亮

英語中国語翻訳者

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