「坂の上の雲」では分からない明治の群像 4

2015年09月13日 17:12

児玉源太郎
児玉は、長州は長州でも支藩の徳山藩。だから乃木のような有力な引きもなく明治3年少佐で任官した乃木とは五階級下の下士官軍曹として軍歴を始めている。それが後年大将、陸軍大臣、参謀総長になり長州閥のホープと目されるようになったのだから如何に優れていたか伺われる。
明治10年の西南戦争では熊本城攻防戦に参加。台湾総督時代には後藤新平を起用して民政に当らせ多大な成果を上げた。

児玉は外相小村と並んで対露開戦論者の代表であった。私はこの点と日露戦争勝利後陸軍の満州支配の先鞭をつけたことの二点で、児玉の近代史における役割には否定的である。もっとも同じ理由で彼を高く評価する人も多い。
日露戦争の翌年山県の後を襲って参謀総長在任中54歳で急死。日露戦争に精力を使い果たし、まるで朽木が倒れるような死であった。

児玉が旅順戦の終盤満州軍総司令官大山巌の代理として乃木第3軍に乗り込み、一時乃木の指揮権を取り上げ203高地を攻略する行(くだり)は「坂の上の雲」のハイライトで、これを読んで児玉ファンになった人は多い。
だが児玉はその前がいけない。海軍や東京の参謀本部では早くから着弾観測所として203高地の占領を主張していたが、満州軍総司令部も第3軍も聞き入れなかった。遅まきながら攻撃目標を同地に転換した時は、既にロシア軍が防御を強化した後だったのであれほどの損害を強いられた。

乃木希典
乃木は松陰の伯父玉木文之進の弟子であり松陰の相弟子に当たる。しかも有力な長州諸隊の一つ御楯隊総督御堀耕助は従兄弟に当たる。従って児玉源太郎と違い、長州閥の嫡流と言える。
御堀は従兄弟の乃木のことを気にかけ瀕死の床で陸軍の大幹部であった薩摩の黒田清隆に乃木の将来を託す。黒田はこの約束を忘れず明治4年いきなり士官である少佐として任官させる。乃木は晩年生涯で一番うれしかったのは陸軍少佐に任官された時だったと述懐している。

日露戦争が勃発した時、満州軍の司令官はそれぞれ第1軍薩摩藩の黒木為楨、第2軍小倉藩の奥保鞏、第4軍薩摩の野津道貫というわけで長州人を一人は入れたい山県の藩閥人事であった。もっとも単なる藩閥人事というのは公正を欠くかもしれない。乃木は日清戦争時に第2軍歩兵第1旅団長として旅順要塞を短期間で攻略した実績もあった。不運だったのは参謀長に薩摩の伊地知幸介を配されたことだ。伊地知は軍人として思考に柔軟性を欠いた上に海軍に張り合う意識が強くその助言に耳を傾けなかった(203高地への攻撃目標転換、艦砲提供の申し出等)。

日本軍において参謀長の役割は非常に重要で作戦は全て参謀長が起案し司令官はめくら判を押すだけであることが多かった。満州軍総司令官大山巌と総参謀長児玉源太郎の関係また然り。
戦前陸軍で密かに囁かれた乃木無能論を戦後声高に語ったのが司馬遼太郎。だが司馬の乃木論はいささか公平を失している。第一回旅順総攻撃の直前総参謀長の児玉も現地を視察し作戦計画に同意している(但し実際の作戦時には不在)。だから少なくとも第一回総攻撃の失敗は児玉にも責任がある。

旅順戦であれほど出血を強いられたのは事前の情報収集を怠った陸軍全体の責任だろう。陸軍は日清戦争以後来るべき日露戦争に備えて多くの陸軍軍人を諜報活動のため満州に送り込んでいる。先日取り上げた石光真清もその一人。それなのにロシアが遼東半島を租借した後、旅順要塞に関する情報収集を怠ったのは理解に苦しむ。
山県等陸軍首脳は旅順の苦戦を見て一旦乃木更迭を決めるが乃木を愛していた明治天皇に反対され断念した。明治天皇が反対した理由は「そんなことをしたら乃木は生きてはいないだろう」というものであった。
もっとも明治天皇の反対がなかったとしても激戦の最中前線の司令官を替えるのは、作戦がうまく行っていないことを公表するのに等しいから、外債募集にも悪影響を及ぼしたことだろう。従って乃木更迭が果たして政治的に賢明であったかどうか。

私は2003年の暮203高地の山頂に立った。日露戦争当時は不毛のハゲ山だったが、その時は松の低木に覆われていた。旅順港を見下ろす位置関係にあるという先入観があったので港は意外に遠いなと感じた(3km前後)。それでも着弾観測には十分だったのだろう。
山頂に乃木が建てた「爾霊山」の記念碑がそのまま残されていたのも意外だった。新中国建国後日本軍国主義の支配を連想させる痕跡はほとんど抹殺され、残されたのは只歴史の教材としてだけであったから。
尚中国語で二○三と「爾霊山」は音が同じ。漢詩文の素養が豊かであった乃木は中国語の音を知っていた。
203高地からの帰りに水師営の会見所にも寄ったが、今あるのは文革中破壊されたものを日本人観光客目当てに復元したものである。中国人がここを訪れるとは考えられない。

乃木殉死のこと
乃木は遺書の冒頭で「西南戦争の時、軍旗をなくして以来死処を探していた」と書いている。本心だろうか、軍旗の喪失は35年前の明治10年の話だ。まして明治10年と言えば陸軍ができてから日も浅い。軍旗をそれほど神聖視する思想が当時あったのだろうか。
乃木の遺書が本心からのものとは信じられない。旅順戦で多くの将兵を死なせたことが終生乃木の負い目となっていたことは、多くの証言が明らかにしている。解任されるべきところを天皇の温情で名誉を救われたことを戦後知った時、乃木は殉死を決意したのではないか。ではなぜ遺書にそれを書かなかったのか。それを書けば旅順戦で戦死した将兵の遺族の怨嗟が解任に反対した天皇に向かいかねない。乃木を解任していれば自分の父、夫、兄、弟、子は死ななくて済んだかもしれないと思うだろう。乃木はそれを恐れたのだ。
まして乃木ほどの著名人である。公表されることを前提に遺書を書いたはずだ。  続く

青木亮

英語中国語翻訳者

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