「想定外」とは何を意味するか --- 長谷川 良

安倍晋三首相が、「考えられないほどの大雨だ。心配している」と述べた、とのニュースを聞いていたが、その直後、鬼怒川の決壊が生じ、犠牲者が出た。その時から、川名が気になっていた。どうしてそんな怖い名前をわざわざ付けたのだろうか、と考えていたら、産経新聞の「産経抄」のコラムを読んで、その謎が解けた。

「かつて毛野国(けののくに)と呼ばれた地域を流れる鬼怒川は『毛野川』、あるいは穏やかな流れを表す『絹川』と呼ばれていた。やがて台風や大雨のたびに氾濫を繰り返すことから、『鬼が怒る川』となる」

優しい「絹川」が「鬼怒川」となったわけだ。台風や大雨のために大きな被害をもたらす鬼怒川にダムが建設され、堤防ができたために川が氾濫することがなくなったので「鬼が怒らなくなった」と言われたということも知った。

ところで、日本ではここ数年、災害が多い。東日本大震災もそうだった。大震災は1000年に1度の天災と言われ、今回は数10年に1度の災害という。四季折々の変化に恵まれ、美しい自然を堪能できる日本だが、同時に、自然災害も襲ってくる。物理学者の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやって来る」といったが、天災と次の天災の間の時間的インターバルが短くなってきたように感じる。

ところで、東日本大震災では津波で被害を受けた福島第一原発に関連し、「想定外」という表現が頻繁に使われた。東日本大震災ではマグ二チュード9・0とニュースで初めて聞いた時、当方は信じられなかった。間違いではないかと思ったほどだ。大震災だった関東大地震(1923年9月)でもマグ二チュードは7・9だった。それ以上の大震災が起きるとは考えていなかったからだ。しかし、それは事実だった。そして「鬼が怒らなくなった」といわれた川で決壊が起きた。やはり「想定外」だったのだろう。

「想定外」とは、通常人間が思考できる範囲を超えている事態、状況を意味する。そして思考するのは通常、人間だ。動物が「あれは想定外の出来事だった」とはいわない。人間は考える葦だ。だから、「想定外」も人間だけに該当することになる。その人間が、「考えてもいなかった」ことに直面した時、「想定外」という今風の表現が飛び出すわけだ。

それでは、「想定外」は人間の英知の敗北を意味するのだろうか。ドイツ語には 「人は考え、神は導く」(Der Mensch denkt, Gott lenkt)という諺がある。人はその知力と経験を駆使して考えるが、自然の前に常に勝利できるわけではない。「想定外」というのは、人間の知力の無力さを知り、自然の絶対的な力の前に口を閉ざしてしまう瞬間、ともいえるかもしれない。「絹川」が「鬼怒川」となった背景には、そのようなプロセスがあったはずだ。

問題は、「想定外」の状況に出会った時だ。人は絶望に陥るが、そこから這い上がって歴史を歩んできた。天災に遭遇する度に更に安全で豊かな社会を作り上げていった。その意味で、「想定外」は発展の契機となった。もちろん、そのために多くの犠牲者が出た。

欧米社会では「想定外」の出来事に遭遇すると、彼らは先ず、創造主・神にその怒りをぶつけていった。「神の不在」を追及した(「大震災の文化・思想的挑戦」2011年3月24日参考)。彼らは「想定外」の力を誇る自然の力に対して挑戦し、戦った。一方、怒りをぶつける対象を持たない日本人は「想定外」の出来事にぶつかった時、その力に挑戦するというより、その力との調和と和合を求めていったのではないか。「狩猟」と「稲作」文化の違いともいえるかもしれない。「想定外」に出会った時の危機管理で欧米文化と日本では明らかに違っていたのだ。

ある意味で、日本民族は幸いだと思う。その怒りや絶望をぶつける対象をもたないゆえに、その弱さを自身に問いかけ、時には失望するが、謙虚にならざるを得ないことを学ぶことができるからだ。欧米社会のメディアが大震災に遭遇した日本人の規律性、諦観さに驚く。彼らは怒る人間を見てきたが、口を閉ざし、ささやかな救いの手に頭を下げ、感謝する日本人の姿に一種のカルチャーショックを受けるという。

豪雨災害の早期復旧を祈る。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年9月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。