こんばんは、おときた駿@ブロガー都議会議員(北区選出)です。
週末はイベントや勉強会の合間に同年代の政治学者・岩田温氏の著作を読んでいたのですが、感化されてうっかりマックス・ウェーバーやマキャベリの古典を引っ張りだしてしまいまして。
稀代の政治哲学者2名に共通するメッセージの一つに、「政治家」であること・あり続けることの困難さが挙げられます。
今日はその中から、「政治家は孤独である」という点について、私なりの経験と言葉で解説していきたいと思います。
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まず政治家とはそもそも、大なり小なりそれなりの信念を持った人間が志し、職業として選択します(勿論、例外もある)。
はじめて政治家として選挙に立候補したときは、
「若いから・新人だから」
「何かをやってくれそうだから」
というふわっとした理由と期待で、誰もがある程度の支持者を獲得するものです。
何ら後ろ盾のない青年が、ガムシャラな熱意だけで当選することもあるでしょう。
しかし、政治家が政治家になるためには、そこから本当の試練が始まります。
議員ともなれば、あらゆる社会課題に対して、自らの意見表明を求められます。
「ふわっとした期待」
で彼を応援していた支持者たちは、その新人議員が自分の考え・政策と異なる姿勢を示した途端に、
「そんな人間だと思わなかった」
「期待していたのにガッカリ」
「すっかり変わってしまった」
口々にそんな言葉を浴びせて、彼から距離を取り始めます。
残念ながら特に民主主義に成熟していない我が国では、
「政治家を自分たちの手で育てよう」
「長い目で見て評価しよう」
という意識は極めて希薄です。
実は意見表明をする度に静かなる支援者も増えているのかもしれませんが、多くの新人議員たちは去っていこうとする人々の言葉に耐えることができません。
「なるべく、はっきりモノを言うのはやめておこう」
「誰もが納得しそうな、万人受けする政策提言だけにとどめておこう」
あるいは
「自分の所属政党のスタンスにすべて合わせておこう」
「何か文句を言われたら、『政党の方針で仕方なく…』と言えばいい」
そのような道に逃げ込む議員もいるかもしれません。
この瞬間、「政治家」を志していた彼らは「政治屋」へと変貌を遂げるのです。
それでも残った「政治家」たちは、非難と孤独に耐えながら、自らの志を実現するために前に進み続けるかもしれません。
しかしそんな彼らには、さらなる苦難と孤独が待ち受けています。
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もちろん政治家たちにもふわっとした支援者だけではなく、理念や想いを語り合える「同志」が存在します。彼らと理想を語り合うとき、その政治家は決して孤独ではありません。
しかし、彼が政治家としてのキャリアを重ね、いずれ社会を変革できる権力に手をかけた時、その関係は終わりを告げます。
なぜなら政治には、ほぼ確実に何らかの妥協が必要となるからです。
権力からほど遠い位置にいるとき政治家は、現状を憂い、理想を力強く語ります。
しかし、その実現が可能となる地位についた時、多くの場合その実現困難に直面します。
「自分の理想だけを主張し続けていては、何も変わらない」
「現状から何も進まないよりは、60点でも変化を起こすべき」
政治家が行ったその苦渋の決断は、想いを語り合った同志たちから、「変節だ!」と激しい責めを受けるでしょう。
そしてその理想や志が高ければ高いほど、反動は大きなものになるのです。
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政治家が政治家足らんとすれば、ふわっとした期待で集まる支持者たちからは突き放され、熱く語り合った同志からも見限られる覚悟が必要になるのかもしれません。
-自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が、どんなに愚かであり、卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、
「デンノッホ!(それにもかかわらず!)」
と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」をもつ-
(マックス・ウェーバー「職業としての政治」より)
ウェーバーやマキャベリの原書を読むのはなかなか骨が折れますが、読書の秋にチャレンジしたい方は、本日の参考文献でもある岩田温氏の著作などからぜひ手を付けてみてください。
それでは、また明日。
おときた駿 プロフィール
東京都議会議員(北区選出)/北区出身 31歳
1983年生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトングループで7年間のビジネス経験を経て、現在東京都議会議員一期目。ネットを中心に積極的な情報発信を行い、地方議員トップブロガーとして活動中。
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