LGBT、今なぜ注目されるのか?

私がバンクーバーに来たばかりの頃通っていたフィットネスクラブはいわゆるゲイの集まりで有名なところでありました。そこに週5回も通っていたのでゲイの友人も増え、週末ゲイクラブに繰り出し、騒いだものです。ある金曜日の夕方、フィットネスを終えてサウナに入っていたところ顔見知りの男が「ヒロ、今晩ご飯どう?」と誘ってきたので「ごめん、俺、ストレートなんだよね」の初めにきっちり断りを入れました。

バンクーバーはサンフランシスコと並びゲイ、レスビアンの権利が古くから守られて、理解されている北米の代表的都市であります。よって、ここでは彼らとごく普通の共存が起きています。

私の住居の隣人は長らくゲイの夫婦だったのをはじめ、私の住むコンドには数組のゲイカップルがいます。私のクライアントもゲイが多くいます。ですが、何ら抵抗はありません。それはここに来た時にその世界を十分理解する機会に恵まれたということもあります。

一方で笑い話もあります。元従業員の可愛い顔の日本人男子が業務上のつながりのあるカナダ人から非常に親切にされ続けていました。従業員の彼はこちらに来て間もなく、ゲイの世界など知る故もありません。ある時、その男から誘われ、酒と食事をごちそうになった後、家に遊びに来い、と言わます。もっと飲めると思いついて行ったところ、そういうことではなく、大変な思いをし、逃げ帰ってきたのです。今となれば爆笑話ですが、双方の意思の確認をしていなかった間違いでもあります。その後、誘った男に「なんでうちの若いのを連れて行ったのか?」と聞いたら「ついてくるんだからそうだと思うだろう」と開き直られました。

今、バンクーバーに出来る新しい大型レストランにはある特徴があります。それはトイレに男女の区別がないのです。今までは男のエリアと女のエリアは分かれていましたが、今はありません。ただ、たくさんの個室がずらっと並んでいて男でも女でも空いているところに入る、という仕組みです。個室内にはトイレと洗面所と鏡がついていますから正にパウダールーム的要素を個室に全て備えているのであります。(考えてみれば飛行機のトイレには抵抗がないでしょう。)

これは性の区別を極力なくすという時代の流れの一環なのだろうと解釈しています。日本ではゲイ、レスビアンが一般的ですがバイセクシャル、トランスジェンダーといったあまり目立たない人も多くいます。日経ビジネスの特集によるとLGBTの比率は日本の場合、人口の7.6%というのですから驚きです。左利きが8-15%、血液型がABの人が10%、障害者手帳保持者が6%という比率を考えればいかに多いかお分かりになると思います。

ところで日本は歴史的にオカマやゲイが多くいたとされています。あるいはそれを文化などに転じた例も多いとされます。嘘か本当かわかりませんが、織田信長、上杉謙信、武田信玄などの名前が取りざたされるのは武将は男性社会での血と血のつながりが理由かもしれません。やくざも盃を交わすことで家族以上のつながりを作り上げます。三島由紀夫は典型的なゲイだったはずです。(ちなみにおかまとゲイは狭義では全く違います。よっておかまバーとゲイバーの言葉は使い分けるべきです。)

日本は男女雇用機会均等法などが世に出回るまで男女の役割ははっきりしていました。理由の一つは儒教の教えだと思います。欧米でもキリスト教のカソリックは同性愛は罪深いもので教義的に許されないでしょう。イスラム教も預言者ロトの言葉を拠り所として許されない発想であります。

しかし、宗教観を一般社会に強要することはできません。これが日本で今、改めて話題になっているLGBT の権利であります。個人の信条とパブリックに於ける行為は区別しなくてはいけない時代になったともいえるのでしょう。アメリカ大統領選挙の演説でもアメリカで同性の結婚を認めるかどうかでその個人的信条を背景にした発言もありますが、国家の宗教色を強めるのがよいのか、自由を選ぶのか、これは国民が明白な答えを出すでしょう。

少なくとも世のトレンドは選択の自由であり、生きる権利であります。これは織田信長がキリスト教を受け入れたこと(仮に戦略的であったとしても)と何ら変わりないのであります。その対比として秀吉のキリスト教迫害は今の世の中ではもはや許されない蛮行ということなのでしょう。

LBGTの権利はバンクーバーのトイレに見られるようにそっと静かに世の中に普及していくことになるでしょう。日本の一般社会でもそれをどう受け止めるのか、正面から見つめなおさねばなりません。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人  9月21日付より