本能寺の変に関する諸説のまとめ

2015年10月25日 15:19

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先ず宮本昌孝の「乱丸」を紹介することにする。本能寺の変をテーマとする小説ではこの「乱丸」が最もすぐれている。但し最も真相に迫ったものというわけではない。
これは近習森乱丸(蘭丸)の目を通して信長の晩年と本能寺の変を描いた小説である。明智光秀の謀反については昔は個人的な怨恨説に立つものが多かった。それには主として以下がある。

一、武田討伐を終えた時祝賀の席で光秀が「我らも苦労した甲斐がござった」と言ったのを信長に咎められ散々打擲された。
一、家康接待に不調法があり、接待役を召し上げられ 光秀は面目を失した。
一、波多野氏が立てこもる丹波八上城を攻めた時、光秀が決めた降伏条件を信長が破ったため人質であった光秀の母親 が殺された。
一、秀吉を助けるため中国に出陣するに当り光秀の領国丹波を取り上げ未だ敵国毛利領であった出雲石見を与えられた。これでは根無し草として毛利と戦うことになり光秀は逆上した。

これらはいずれも信頼できる資料にはなく遥か後世の創作と思われる。特に最後の丹波召し上げなどあり得ないことだ。いくら信長が暴君でも丸裸で出陣させ士気を阻喪させるような馬鹿な真似はしないだろう。
第一、これだけの仕打ちをしたのなら晩年猜疑心の固まりであった信長は光秀を厳重な監視下においたはずだ。そうはせず全く無警戒であったことを説明できない。

というわけで最近では以下のニ説が有力である。

一、四国問題
四国の長宗我部元親との外交を任された光秀は、信長に臣従する代償として四国は長宗我部に任せると取り決め、信長も一旦は了承した。ところが信長はこの約束を反故にして四国討伐を決めた。正に本能寺の変当日四国遠征軍は大坂から出陣することになっていた。本能寺の変の直接最大の受益者は長宗我部元親であった。これも怨恨説の一つと言えるかもしれないが上記のいずれとも違って確かな客観的情況はあったので間接証拠にはなり得る。

一、第三者の使嗾による。この第三者はニつに分かれる。
 イ、室町幕府最後の将軍足利義昭

   義昭は光秀の旧主ではあったが毛利支配下の備後鞆にいたので光秀との連絡は容易でないし、義昭がこの企みを毛利側にもらした形跡もないのでこの説を支持する人は少ない。

 ロ、朝廷、これは更に正親町(おおぎまち)天皇自身と関白近衛前久(さきひさ)に分かれる。

当時朝廷と信長の間は良好とは言えなかった。その背景にあったのは

信長が天皇に皇嗣である誠仁親王への譲位を迫っていたこと。

閏月の策定を巡って古来から朝廷の管轄であった暦法に介入したこと。

三職(さんしき)推任問題。

この当時の根本資料である武家伝奏勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の失われたはずの日記の一部が1968年に見つかったためこの問題はにわかに脚光を浴びるようになった。
ただこの史料は日記という性格上主語が省かれていることが多いため解釈は1つではない。三職のいずれかに就くよう求めたのは誰かが問題。以前は朝廷の側と解釈するものが多数であったが、今では信長の側とするものが多い。但しそうであっても信長自身の意向かそれとも京都所司代村井貞勝の独断であったのか問題は残る。何れにしても朝廷と信長の間に不穏な空気が漂っていたのは間違いない。

ただ朝廷側が光秀を使嗾したとの説は、失敗した時のリスクが大きすぎるので私は取らない。

この小説は第三者使嗾説に立つが上記の何れでもない。その第三者は勿論秀吉でも家康でもない。推理小説の犯人を明かすのはこれから読む人の興をそぐのでここでは書かない。興味のある方は直接読まれるのがよい。

因みに司馬遼太郎は、光秀の発作的単独犯行と見て第三者の関与はなかったと見る。司馬によれば発作的な単独犯行であったからこそ成功したのだ。足利六代将軍義教を暗殺した赤松満祐がそうであったように。 
井沢元彦も司馬説を支持する。ただ発作的単独犯行説と四国問題とは必ずしも矛盾しない。四国問題が発作的犯行に駆り立てたと見ることもできるからだ。

私も基本的には司馬&井沢説に立つ。1580年石山本願寺が事実上降伏した時、遥か昔の罪をあげつらって佐久間信盛、林通勝、安藤守就を追放したことは信長麾下の諸将を戦慄させたことだろう。

あの時漢籍の教養も豊かであった光秀は史記の「狡兎死して走狗烹らる(獲物がいなくなれば不用になった猟犬は煮て食われる)」の故事を思い出したに違いない。
実は本能寺の直前武田は滅ぼしたが主だった大名だけでもまだ長宗我部、毛利、島津、上杉、北条が残っていた。信長は走狗を烹るのが早すぎたのかもしれない。

尚信長最後の言葉「是非に及ばず」はよく知られている。これは「光秀謀反の善悪を論じても仕方がない。これも天命だ」と解釈するのが一般的であるが、この本によると「是非に及ばず」は次のような文脈中で発せられた。
 近習のやりとり
 「(明智軍)兵のおおよその数は?」
 「分かりません。数千か万を超えるのか」
 それを聞いていた信長が「是非に及ばず」と言った。

この文脈で解釈すれば単に「そんな数字を詮索しても仕方がない」の意味にとれる。このやり取りの典拠が信長公記にあるかどうかは未確認。
こうした信長最後の場面を目撃した人達はみな死んだはずだが一体信長公記の作者太田牛一は誰から取材したのだろうかと疑問に思われる人もいるかもしれない。実は男はみな死んだが女達は皆殺されることなく生き延びた。こうして生き延びた女達から後に太田牛一は取材したのだ。

天正元年(1573年)毛利家の代表として京で信長との交渉に当たった安国寺恵瓊(えけい)の有名な手紙が残されている。

信長の時代はあと三、五年は続くだろう。来年辺りは公家になれるかもしれない。だがその後いずれ派手にひっくり返るに違いない。
 
この手紙は本能寺の9年前のものだ。できることなら安国寺はどこを見て信長の危うさを感じたのか聞いてみたい。もっとも「いずれ派手にひっくり返るに違いない」の部分は単に安国寺の願望であった可能性もなくはない。
私は晩年の信長を思う度にスターリンを連想する。スターリン独裁下ではどんな高位にある幹部も、いや高位にある者ほど粛清の恐怖に恐れおののいていたものだ。

武功夜話のこと
1959年の伊勢湾台風の際愛知県江南市の旧家の土蔵がくずれて発見された戦国史の資料がある。それが若き日の信長、秀吉を扱っている武功夜話。一時戦国史の常識を覆す大発見として騒がれた。遠藤周作に至ってはこれに触発されて「男の一生」を書いたほどだ。だが今では、この文書は信長秀吉時代を遥かに下る江戸時代初期に書かれたもので資料的価値は低いと見られている。信長に近侍し同時代を生きた太田牛一の書いた信長公記の史料的価値とは比較にならない。

青木亮

英語中国語翻訳者

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