前稿(「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」)で、いわゆる「南京大虐殺」について、「南京防衛軍司令官の”敵前逃亡”でパニックに陥り撃滅処断された兵士が相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった」と記した。
しかし、実際は唐生智は”敵前逃亡”ではなかった。当時はそのように受け取られ、「軍事裁判の結果死刑」との情報が流れたが、実際には唐は生きていて、戦後も共産党政権下で湖南省副所長などを歴任したことが判っている。さらに、唐の脱出は蒋介石の命令であったことも判っている。それは軍主力をいち早く撤退させ戦力を温存するためだったが、蒋が降伏を認めなかったため、逃げ遅れて日本軍に殲滅処断された兵士も多かった。
また、この時「安全区」に「埋兵」を置き、略奪・放火・強姦などの攪乱工作をさせた。これを日本軍の暴虐宣伝に利用したのが、南京安全区国際委員会の主要メンバー(スマイス、ベーツなど)であった。これが意図的であったかどうか不明だが、ベイツは中華民国政府顧問であり「蒋介石から二度勲章をもらった」人物(東中野)。スマイスも国民党中央宣伝部国際宣伝処の工作を受けていたことが判明している(北村稔)。
彼らは、日本軍の南京占領後「南京安全区国際委員会」(委員15名)を組織し、南京城内に残された中国難民約20万人の保護・救済を名目に、日本軍に対して難民の食料・住居の配分、警察権などの行政権を主張した。日本軍は「安全区」の存在を正式には承認しなかったが、パネー号事件で英米に気を遣っていたためか「承認したものの如く」扱った。ここに、「安全区」の管理をめぐる国際委員会と日本軍との確執が生じた。
この確執の記録が、南京安全区国際委員会が南京の日本大使館等に提出した『南京安全地帯の記録』(s12.12.16~翌2月上旬間の安全地帯における日本兵の不法行為の事例)である。ここには、第一部189件、第二部255件の事例が列挙されており、第一部は日本側に提出された公式文書であるが、第二部は単なる「覚書」であり公式文書ではない。いずれにしろ、ここに列挙された事件が、彼らが訴えた南京城内で発生した事件の全てである。
では、この記録の中に殺人事件は何件あるかというと、驚くなかかれ22件で被害者は53名である。その他の強姦、略奪、放火、拉致、傷害、侵入、その他は、冨澤繁義氏の「データーベース南京事件の全て」によると、これらの中から、文責のないものを除き、さらに被害者不明な人的事件を除き、人的事件以外では被害場所不明なものを除いた「事件らしい事件」は97件となる。
この97件は南京城内における2ヶ月間の事件数であるから、1日あたり1.6件、20万都市の犯罪件数としては極めて少ない。では、なぜこれが南京の「terror=暴虐」となったか。それは、事実関係の確認されていない訴え=伝聞をそのまま日本軍兵士の犯行としたため。確かに日本軍の責めに帰すべき事件や日本軍兵士の引き起こした事件も多かったようだが、国際委員会は、事実確認より日本軍の暴虐を訴えることを優先したのである。
こうした彼らの作為は、彼らがティンパーリー(国民党中央宣伝部顧問)に協力し出版した『戦争とはなにか――中国における日本の暴虐(The Japanese Terror in China)』1938.7)に明白である。この本は、先の『南京安全地帯の記録』に多く依拠しているので、いわゆる大虐殺(massacre)とは題されていない。しかし、ここでは暴虐から大虐殺にするための重大な事実の改変が行われている。それは、『南京安全地帯の記録』では公式に訴えることができなかった安全区からの敗残兵の摘出処断を、不法殺害ないし市民虐殺としたことである。
この本の第四章「悪夢は続く」には、「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました・・・これらの者は追い詰められた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されたりしましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」と書かれている。(この記述者は次の第三章の記述と同じくベイツ)
さらに第三章「約束と現実」には、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三0パーセントはかって兵隊になったことのない人々である」と書かれている。つまり、安全区に逃げ込み摘出された一万人以上の兵士を、不法殺害された兵士の如くいい、また、一般市民も殺されたといい、さらに、その総数を4万人とし、その30%1万2千人を一般市民としたのである。
なお、前稿で紹介したスマイス調査についてであるが、その調査書第四表とは別に、本文2「戦争行為による死傷」において、拉致された4,200の数の付記として、「市内及び城壁付近の地域における埋葬者を入念な集計によれば、12,000の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器を持たないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない」という記述がある。(ベイツに付き合った?)
スマイスは、この数字の根拠を「紅卍会の埋葬者の入念な集計」としているが、紅卍会の埋葬記録では、男41,183、女75、子ども20となっている(訂正:これは城外区の数字、城内区は男1,759、女8、子供26(56?)となっている)。また、この数字も、「当時、特務機関兵として南京に駐在し埋葬問題を取り扱った」丸山進氏によれば、「民生を潤すために大幅な水増しをみとめた」という(実数3万人前後)。一般市民が大量虐殺されたのなら女83、子ども46(76?)という数字には止まらないだろう。
それにしても、日本軍による相当数の「捕虜や敗残兵、便衣兵」の処断が行われた(『南京戦史』では1.6万、ただし、この数字は南京城攻防戦全体での犠牲者数であって南京陥落後の数字ではない)ことは事実である。私は、これは松井大将が入城式を12月17日に強行したためではないかと考えたが、松井大将としては、一刻も早く戦闘状態を終わらせたかったのかもしれない。氏の日記にはこのことの反省はない。
しかし、問題は、中国軍が投降せず、安全区で後方攪乱を行い、かつ国際委員会は国民党宣伝部と結託して日本軍残虐宣伝を行っていたと言うこと。つまり、「戦闘」は継続していたのである。これが日本軍の掃討作戦を過酷にした主たる原因なのではないか。「戦闘」が最終的に終息したのは、昭和13年2月14日、国際委員会委員長ラーベ宅から二人の中国軍将校が姿を消した時。ラーベは翌日の日記に「我々の友情にひびが入った」と書いている。
おそらく、こうした「南京事件」をめぐる「実相」は、当時の人々には自明だったのではないか。国民党も顧維鈞が一度言及しただけで、国際連盟も問題にしていない。ところが、この『戦争とはなにか』の記述が、戦後にわかに復活した。昭和20年12月9日より、GHQがNHKラジオで毎日放送させた「真相はかうだ」では、「陥落前の南京」と題して「この南京大虐殺こそ、近代史上希に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります」となった。(『真相箱』)。
その後、「南京大虐殺」は東京裁判を経て”正式に”復活した。それは国民党の戦時プロパガンダ(日本軍残虐宣伝)として始まり、アメリカ人宣教師らがそれに協力して虐殺事件に改変し(人種的優越感と共に日本軍国主義に対する嫌悪感がその根底にあった)、戦後、アメリカがそれを原爆等の非人道性相殺のために利用し、さらに国共内戦におけるヘゲモニー争いで国民党が日本軍国主義との戦いのシンボルと化した。今は、中共がそれを日米離間に利用している。