山本五十六は名将か?

2015年12月09日 00:11

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私の山本五十六評価が低い理由は以下の通り。

一、開戦劈頭真珠湾を不意に攻撃したためアメリカは日本の無条件降伏以外に講和の道はないとホゾを固めた。開戦通告の遅れがなかったとしても、南雲機動部隊は開戦日の10日以上前に日本を出港しているので、騙し撃ちの非難を躱すことは難しかっただろう。しかも反復攻撃を行わなかったためドック、石油タンクを無傷で残したことが、半年後ミッドウェイ大敗の伏線となった。

一、開戦以来海軍の暗号を一度も変えなかった。アメリカは開戦直後の12月末ウェーキ島に沈んだ日本駆逐艦から暗号書を引き上げ解読に成功した。それがミッドウェイの大敗と自らの死につながる。

一、真珠湾作戦は軍令部の強い反対を押し切って実行に移したにも関わらず人事で最善を尽くさなかった。 特に第一航空艦隊司令長官の南雲忠一と連合艦隊参謀長宇垣纏が問題。勿論人事権は連合艦隊司令長官の山本ではなく海軍大臣にあるが大物の山本が強く主張すれば(例えば南雲ではなく小沢治三郎、宇垣ではなく山口多聞、大西瀧治郎)その意見は通ったはずだ。

一、一度も陣頭指揮を行なわなかった。山本は海軍大臣及川宛の手紙で「義経の鵯越、謙信と信玄の川中島、信長の桶狭間を合わせた一大奇襲作戦を行う(真珠湾攻撃のこと)」と書いた。義経、謙信、信玄、信長みな陣頭で指揮した。謙信に至っては単騎敵本営に切り込んだほどだ。
ところが山本は真珠湾攻撃の時、自らは瀬戸内海の安全な港で将棋を指しながら吉報を待った。戦況がどうにもならないほど悪化してからやっと南方の前線に出かけ意味のない陣頭指揮の最中無残な死を遂げた。

一、山本は飛行機の威力と空母の使い方は知っていたが戦艦の使い方を知らなかった。真珠湾でもミッドウェイでも戦艦は全く働いていない。これは陣頭指揮をしなかったこととも関連する。

防御力が弱く通信機能も弱い空母を戦艦の護衛なしに最前線に出すことのリスクを知らなった(勿論駆逐艦等補助艦の援護はあった)。
ミッドウェイ島攻撃は戦艦の艦砲射撃に委ね、航空機は陸上攻撃ではなく戦艦の援護と敵空母出現に備えるべきであった。そうすれば敵空母の出現を見て慌てて爆弾を転装する必要もなかった。

航空機とレーダーの発達によって日本海海戦型の艦隊決戦は過去のものとなったので、戦艦は海に浮かぶ動く要塞として島嶼攻撃と空母の援護に使うべきであった。戦艦のこうした使い方をしたのは米軍であって日本軍ではなかった。大艦巨砲主義が時代遅れとなったのではなく山本を筆頭とする日本海軍は新時代の戦艦の使い方を知らなかった。

一、開戦前近衛首相に日米戦の見通しを聞かれて「半年、一年は存分に暴れてみせます。しかし二年、三年となると確信がありません」と応えた。最後の海軍大将井上成美は「なぜはっきり『勝てません』と言わなかったのか」と批判している。

山本の名言に「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」というのがある。これを座右の銘としている経営者も多い。だが山本が、この名言を自ら実践したとはとても思えない。陣頭指揮もせず南雲司令部と緊密な打合せをしなかったことが、真珠湾攻撃の不徹底、ミッドウェイの大敗につながる。

こうして見ると連合艦隊司令長官としては何一つ評価できるものはない。だが海軍次官として海軍大臣米内光政、軍務局長(当時)井上成美とともに日独伊三国同盟を阻止したことは評価できる。但し彼らが海軍省を去ってから締結。

淵田美津雄は以下の通り山本を酷評している(「真珠湾攻撃総隊長の回想」)。
その航空重視はいいとして新時代の戦艦の運用法で見るべきものなし。真珠湾後、南雲機動部隊に課した作戦(インド洋作戦等)は無意味。

尚井上成美によれば、日本海軍の一等大将として加藤友三郎(日本海海戦時の連合艦隊参謀長、海軍大臣、首相)と米内光政(終戦時の海軍大臣)の二人だけを挙げ、東郷平八郎も山本五十六も一等大将に数えない。東郷は昭和に入り海軍条約派の粛清に手を貸したことで晩節を汚したと井上は見ている。

青木亮

英語中国語翻訳者

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