「思いやり予算」という屈辱

日本政府が、2016~20年度の在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)について米政府と合意したと発表した。年間1893億円、総額は9465億円。11~15年度の実績を年間133億円上回る。政府は物価や賃金上昇を除けば現行水準と同じと説明する。

しかし、こんなに多くの駐留経費を負担する国はない。ドイツ、イタリア、韓国と比べ抜群に多い。2002年の米国の資料によると、同盟国の米軍駐留経費負担率は日本75%、ドイツ33%、韓国40%、イタリア41%。日本は大盤振る舞いだ。かつてカーター政権時の大統領補佐官を務めた米政治学者のブレジンスキーが日本を「protectorate(保護領)」と呼んだ根拠の1つとされる。

要するに、属国なのである。日本は幕末に列強から治外法権、不平等条約を呑まされたが、現在もそれと同等、あるいはそれ以下の扱いを米国から受けていると考えていいだろう。

戦後70年も経っているいるのに、日本国中に米軍基地を配置されているだけで、十分属国=保護領である。屈辱である。それなのに、思いやり予算によって、在日米軍基地職員の労務費、基地内の光熱費・水道費、訓練移転費、施設建設費などを支払わされている。思いやり予算の開始当初から現在までに日本が負担した駐留経費の総額は3兆円超に及ぶ。

思いやり予算」は1978年、ドル安で予算のやりくりに苦しむ米国を「思いやって」在日米軍基地で働く日本人従業員の給与の一部を支払おうと、当時金丸信・防衛庁長官が決めたことから始まった。

当時はわずか62億円。それが2000億円を超える規模に膨張してしまった。米国は「思いやり」などという日本側が米軍に付与する「恩恵」のイメージがある「思いやり」表記を好まず、「Host Nation Support」(駐留国受け入れ支援、接受国支援)を公式表記にする。そこには「日本を守ってやっているんだから、当然の負担だ」という「上から目線」もある。

一方、日本政府が「思いやり予算」という用語を継続するのは、米軍に「分捕られている」というイメージを払拭し、「屈辱」を感じる国民の批判をかわそうという思惑もあると思われる。

だが、思いやり予算以外にも、日本が拠出している在日米軍関連経費は多数存在し、2014年度では基地周辺対策費・施設の借料1808億円、米軍再編関係費 890億円、提供普通財産上試算(土地の賃料)1660億円などがあり、それらを含めると実に年間総額7000億円弱に及ぶ。

これらに、米軍基地への整備施設費が加わる。米海兵隊岩国航空基地の沖合拡張工事で3654億円、青森県の米空軍三沢基地の2566億円、米原子力空母ジョージ・ワシントンのバース(保留施設)を整備した神奈川県の米海軍横須賀基地が2329億円、東京都・横田基地1805億円、沖縄県・嘉手納基地1334億円、神奈川県・厚木基地1080億円などだ。

ただ、軍事施設だけならまだいい。施設費には住宅、学校、育児所、厚生・運動・娯楽施設、病院、郵便局などの生活関連施設が加わる。最も多いのが米兵家族住宅で、1万1383戸、総額5510億円。一戸当りの建設費は平均約4800万円という豪華住宅だ。

まさに至れり尽くせり。「こんなにいい生活が保障されるなら」と、米軍が日本から離れようとしないのも当然だろう。

中国や北朝鮮の脅威が強まる中で、米軍の存在が日本の安全保障を高めている。「駐留経費負担が多くても、米軍がいなくなって軍事的な不安が高まるよりはいい」というのが、日本政府の理屈だろう。

いや、政府だけではない。日本人の過半は「カネで住むことなら、軍事的なことは米軍に任せた方がいい」と考えているのだろう。それほど米軍依存心理が日本国民に深く浸透していると思える。

それこそが属国根性ではないだろうか。「属国でいい、保護領でいい、自分と家族が危ないことに駆り出されないならば」。独立国家の国民はそうは考えないはずだ。

安倍政権の集団的自衛権の行使容認と、それに基づく安保法制の整備にあれほどの抵抗があり、すべての世論調査で「安保法案に反対が賛成を上回った」事実がそれを物語る。

だが、それでも安倍政権の支持率はそれほど下がらないところに、現在の日本人の心情が表れている。そのココロを読み解くと、こうだろう。

米軍は軍事予算削減と内向き志向で日本を中心とする東アジアの安全保障にそれほど拘わりたくはない、と考えている。「日本の安全を求めるなら、日本はこれまでの米軍駐留経費負担に加えて、軍事面でも今までよりも一緒に戦う姿勢を示してほしい。さすれば、米国だって中国の攻勢をこれ以上許せないので、東アジアで日本と協力して戦うつもりだ」と。それなら、今まで通りカネも出すし、渋々ではあるけれども集団的自衛権も行使も仕方がないよね。

私の中にも、こうした気持ちはある。それでも、いや、だからこそ屈辱感が残るのだ。残らない人と、私の違いは何なのだろう。

幕末、明治の歴史を読むと、祖先は必至になって、富国強兵の道を目指し、列強との不平等条約、治外法権の解消に努めた。独立を守るために。日清、日露の戦いにも突入した。多大の死傷者、犠牲者を出して。
それを思うと、このままの属国状態でいいのだろうか、屈辱感がないのだろうか。

明治時代も鹿鳴館に象徴される欧化政策によって、列強に媚びへつらいを余儀なくされる事態は存在した。しかし、当時の多くの国民はそれを屈辱と感じていた。

日本は安全保障のために、ある程度の米軍駐留はあっていいだろう。そのための駐留費負担も少しは必要だろう。だが、それはドイツ並みに極力少なくすべけで、長期的にはゼロに近づけるべきものだ。

それが健全な国家である。独立とはそういうことではないのか。米国頼みの心理状態に陥っては、独立は保てない。