わたしたちは多くの共通点を持つ

当方は4年前、「『相違点』から『共通点』への飛躍」2012年12月8日参考)というタイトルのコラムを書いた。

「現代は多くの難問に直面している。経済、政治、宗教、あらゆる分野で対立と紛争が生じている。程度の差こそあれ、意見、見解、利害などの相違が原因だ。そのような時に、相互の共通点を探し、対話を開始するという姿勢がさまざまな分野から聞こえ出してきたのだ。これは新しい“思考トレンド”というべきかもしれない。

例えば、宗教分野でも教義の相違点に拘り、対立するのではなく、共通点を探し、議論を進めていけば、宗教の統一という大きな課題も現実味を帯びてくる。パレスチナ問題もパレスチナ人とイスラエル人が相違点や対立点に拘れば、半永久的に共存できないが、『平和に暮らしたい』という願いは両者とも共有している。議論の出発点は両民族の『共通点』を探すことから始めるべきだろう」

そして当方は昨年、「フォビア時代への処方箋はこれだ!」(2015年1月12日)のコラムの中で以下のように述べた。

「パリで風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社へのテロ襲撃事件が起きた。イスラム過激派テロリストのテロ事件は世界に大きな衝撃を与えている。その結果、イスラム・フォビアが席巻する一方、極右政党が欧州各地で台頭してきた。現代人は民族、国籍、文化、風習の違いなど、相違点に敏感となり、共通点への意識が欠如する結果、他者への理解が欠け、さまざまなフォビアが生まれてきている」

「キリスト教社会に生きる国民にとってイスラム教徒の風習や服装は時に恐怖感を与える。ユダヤ人の場合もそうだ。外観から違いがはっきりしている場合、フォビアは一層、容易に生まれやすい。経済的、社会的困窮な時代には、その相違は拡大され、『彼らはわれわれとは違う」という認識となって定着していく」

あれから時間が経過したが、当方はやはり共通点を探すことで多くの未解決の問題も解けていくと確信する。成功する外交とは、双方の違いや利益に固守するものではなく、双方の共通点を見つけて最大限のコンセンサスを確立する道ではないだろうか。

実例として日韓両国関係を考えれば分かる。日韓が民族、歴史、文化、慣習の違いに拘れば、両国は半永久的に和解できない。慰安婦問題で両国が昨年、合意出来た背景には、両国が相違点ではなく、共通点を数え出した結果ではないだろうか。

それでは、共通点探しで行き着く先はどこだろうか。「わたしたちは同じ人間だ」という点ではないか。そして「わたしたち」ではなく、「私(個人)」に留まっている限り、相違点がどうしても生まれてくる。現代人は「私」を主語として考え、会話することが多い。なぜならば、個人の相違が求められる社会だからだ。その結果、当然だが、相違点が共通点より多く浮かび上ってくる。

独カッセル大学のヨハネス・ツィンマーマン教授が、会話の中で「私」という人称代名詞を頻繁に語る人は周辺の社会環境で問題を抱えている人が多い、という研究結果を公表したことがある。同教授は精神治療を受ける患者と医者との会話を記述したカルテを参考に、その患者が使用する言葉を分析した。同教授によると、患者の話の中で登場する人称代名詞はその人の心の世界を反映する鏡のようなものだ。その研究の結果、「私」を「私たち」より頻繁に使用する人は人間関係で問題を抱えているケースが多いというのだ。

ちなみに、ベルリン自由大学の研究家は過去50年間のポップ・ミュージックのテキストを分析したが、「歌詞の中で“私たち”という言葉が使われるケースが減少する一方、“私”という代名詞が頻繁に登場してきた」という興味深いトレンドを指摘している。

平和で共存できる世界を実現するためにはわたしたちはもう一度、謙虚になって共通点に戻ることではないか。その共通点に立脚したうえで個人の相違点が生まれてくるならば、それはその人の個性として尊重されるのではないか(「同時代の人々への連帯感」2014年12月24日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年3月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。