新入社員から60年間、僕が唯一、持ち続けてきたもの

田原 総一朗

tahara今年も、新入社員誕生の季節がやってきた。新入社員諸君には、希望もあるだろうし、不安もあることだろう。僕にも、そんな時代があった。

小説家を目指していた当時の僕は、大学の夜間部で学びながら、昼間は日本交通公社で働いた。現在のJTBだ。一生懸命やっているつもりなのだが、僕は度を超えて不器用だった。切符切りがまともにできないのだ。それでも、なんとか昼間の仕事をこなし、小説を書いては文学賞に応募していた。結果は、さんざんなものだった。

ちょうどその頃、同世代の石原慎太郎さんが、華々しく文壇デビューした。彼の『太陽の季節』を読んだ後は、しばらく呆然としてしまった。その石原さんのほかにもう一人、かなわないと感じた人物がいる。大江健三郎さんだ。二人の作品に圧倒された。僕は、小説家への夢を断念した。

大学を卒業した僕は、NHKや朝日新聞といったマスコミの入社試験を受けたが、ことごとく落ちた。11社目、ようやく合格する。そこが岩波映画製作所だった。岩波映画製作所ではカメラマン助手となるが、機材の扱いがまともにできない。助手としてはできそこないだ。そこで、ディレクターの道を進むことになる。

僕は本当に不器用だったのだ。けれど「好奇心」だけはあった。これは、いまも変わらない、僕の最大の武器だと思っている。

仕事について「これだけ」は貫き通すと、決めていたことが僕にはひとつある。どんな仕事も、たとえ自分には不向きで無理だと思うような仕事でも、とにかく数年は続けるということだ。その仕事に関する自分の適性、そして、その仕事のおもしろさは、すぐにはわからないからだ。

もし、つらい仕事に就いたとしても、まず3年は続けてみる。ただし漫然と続けるのではなく、その仕事のなかに「おもしろさ」を見つけるように働くのだ。そのうえで、どうしてもやめたければやめる。次をみつけるのは、そのときでいい。

僕はとことん不器用だし、世渡りもうまくなかった。ただ、好奇心だけはいつもいっぱい持っていた。仕事を始めたときからずっと、自分の好奇心に正直に「走ってきた」のだ。

いまの日本は、「守りの社会」になっている、と僕は感じている。戦後の復興から高度成長期までは、攻めるしかなかった。失うものがなかったからだ。そして1980年代、日本企業の国際競争力は世界一になった。ところが、2015年には27位にまで落ちている。日本の社会が「守り」へと転換したからだろう。失うものがあると、人間は「守り」に入ってしまうのだ。

そして「守り」の社会では、個性が強く、言いたいことを言う人間は生きづらい。新しい発想もない、空気を乱さない人間だけが出世していく。だが、そんなことをしていると、企業が、そして国全体が凋落していくであろうことは目に見えている。「守り」の姿勢では、実は「守る」ことさえできない、とみんなが気づき始めたのではないだろうか。

こんな日本にも、既存の概念にとらわれず、新しいものをつくろうとする、若い起業家や政治家は、まだたくさんいる。そんな若者に出会うと、僕はおおいに希望を感じるのだ。学生たちよ、そして、これから社会に出る若い人たちよ。君たちも、きっと自分だけの武器があるはずだ。その武器と「攻め」続ける気持ちを持って、真っ直ぐ歩んでいってほしい。


編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2016年4月11日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。