「画禅の行者としての若冲」考

若井 朝彦

持ち上げるだけ持ち上げて、しかしその限界に突きあたると、すみやかに貶める、これが現代というものである。勝ち馬と思えばだれもが相乗り。しかし潮目は一瞬にして変わる。

はじめのうちは珍重はするが、その内面、裏面が気に入らないとなると捨てて省ない。衆議院議員にせよ、スポーツ選手にせよ、バラエティの藝能人にせよ、遺伝子工学のプロフェッサーにせよ、グラフィックデザイナーにせよ、教育評論家にせよ、ひとたびこのジェットコースターに乗らされてしまうと、自分の意志で途中下車することはほとんど不可能だ。

この傾向は人間にだけではない。たとえば「恐怖」というものにだって、類例の流行りすたりがあって、消費材みたいに扱われる。新しいものがどんどん上書きしてゆく。これは情報の流通量、流通速度がかつてないほど高まった結果の必然ではあろうが、辟易とすることはなんとも多い。

藝術家も、また過去の藝術家であってもあやうい立場に置かれかねない。4月24日にNHKで放送のあった
「NHKスペシャル・天才絵師 若冲 の謎に迫る」
は、なんともナレーションの「盛り」がすごかった。若冲を持ち上げるというよりも、その若冲をダシにして、近日の展覧会や、自身の番組の値打ちを嵩増しするという点で。

『動植綵絵』については・・・
「生誕300年の今年、公開された」
と、今年だけの公開であるかのごとく。

『信行寺花卉図』については・・・
「200年間、非公開とされてきた秘蔵の天井画の撮影が、今回特別に許された」
とはじめての撮影であるがごとく。

その『花卉図・秋海棠』については・・・
「描かれていたのは日本だけでなく、世界中の花々だった・・・中国の花・秋海棠・・・実物を取り寄せたのか、書物を見たのか、京都の野山では見られなかった外来種の色や形が、正確に描かれていた」
と、まるで秋海棠が、その当時の日本になかったかのごとく。
(ちなみに、若冲よりはるかに先んじて、芭蕉にすでに「秋海棠 西瓜の色に 咲にけり」の一句あり。)

以上は、一時よくTVで放映されていたJAROのCM、その三ヶ条、
「事実と違う」
「まぎらわしい」
「誇大な表現」
に立派に該当していると思う。

このところNHKは若冲でもって数本立てつづけに製作しているので、局の内々では競争状態なのかもしれず、そのために表現が過度に傾いたのであろうか。しかし指摘したような難はあるものの、番組そのものにはやはり得るところがあって、それはそれで結構なことだったのだが、藝術家または藝術よりも解説の方が過熱している状態は、かえって本質への接近を妨げかねない。2000年に行われた、
「若冲没後200年大回顧展」
から今日まで16年間、途切れなく人気が続くとはいえ、商業的には、いよいよその扱いが乱雑になりつつあるのかもしれない。

しかし若冲は、いまのこの熱波が去ったとしても、その独自の価値まで軽んぜられるようにはなるまい。同時代の、別の画家と置き換えることは到底できようもないし、そもそも絵への意識が、他の画家とは隔絶しているからだ。

それにつけ加えて言うと、色彩をともなった若冲は、白描の若冲ともまた別人であろう。多くの秀でた画家がするように、時に荒く、時にかぼそな筆の軌跡によって、人の意識、無意識に働きかけるということはまったくしない。筆致ではなく、色と質感と面への信仰。

また若冲の余白は、他の日本の画家のような、含意余情の余白でもない。

若冲の彩色と長時間正対していると、描かれているものだけでなく、若冲が丹念に描いていたその時間が、強く意識されてくることがある。微細なものほど濃密な時間を注いで描く。決して楽には描いてはいない。とりわけ、値をつけるための絵ではなかった『動植綵絵』の、苦楽を超えた、途方もない篤実な時間の重み。

これが若冲のいまの人気を底から支えているわけであるし、消費的な扱いをぎりぎりのところで遠ざけているわけであろう。若冲にとってこの絵に対する没入は、おそらく行のようなものだったのだろうと、そうわたしは想像するものだ。

若冲ゆかりの羅漢さま_640
 
 2016/05/01
 若井 朝彦(書籍編集)

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