伊達政宗とスペインの日本乗っ取り作戦

2016年05月14日 06:00

日本人で初めてアメリカ大陸に渡ったのは、伊達政宗の家臣だった支倉常長の一行である。彼らは、石巻市の月ノ浦から出て、メキシコのアカプルコに上陸し、陸路カリブ海側のベラクルスへ行き、ヨーロッパに渡った。

この支倉使節団について、伊達政宗が天下取りを狙ってスペインと組もうとしたとか、政宗が日本をスペインの植民地にしかねない謀略に引っかかったという人がいる。さらに、鎖国したから日本は植民地にならずにすんだと誤解している人もいる。

しかし、こうした見方は、17世紀前半の大航海時代と19世紀後半の帝国主義時代を混同したトンデモ史観の産物だ。

大航海時代の幕を開けたのは、15世紀のポルトガル。エンリケ航海王子の指揮で、航海が難しかったアフリカ西岸を南下し、喜望峰、インドに到達し、種子島にもやってきた。それに対抗して、スペインはコロンブス船団がアメリカを発見し、そこから、フィリピンにやってきた。

だが、この時代には大人数の軍隊を送るのは無理だったので、ポルトガルは要塞や港町を点として抑えただけで、マカオでも居留地に過ぎず、植民地になったのは明治時代だ。

スペインは、アステカ帝国やインカ帝国を征服したが、アメリカ大陸には金属製の武器も馬もなかったから、少人数で制圧できただけだし、フィリピンには国などなかった。

つまり、中国や日本はもちろん、ベトナムや朝鮮などそれなりの国家が成立しているところを植民地にするなど無理な相談だった。その意味で、鎖国しなければ植民地にされたとかいう話はありえない。

スペインが伊達政宗に興味を持った理由は、マニラとメキシコのあいだの寄港地としてのものだった。太平洋では、風向きのために、メキシコからフィリピンには容易に直行できるが、反対は非常に難しかった。

ところが、ガスパリという宣教師が、大きく北に回る大圏航路をとると航海は容易で、距離もあまり変わらないことに気がつき、その途中で拠点が欲しかったので、伊達政宗に接近した。そこで支倉使節団が派遣されたのだが、マニラの一部の人々が、石巻がマニラの太平洋貿易の拠点としての地位を奪うのでないかと心配して、スペイン宮廷で反対運動をしたので挫折したのである。

もし、鎖国せず西洋の新しい技術を輸入し続けていたら、18世紀に日本はベンガル湾でイギリスと衝突していたかもしれない。逆に新技術が入ってこなかったので、日本は19世紀の植民地時代に火縄銃の装備のまま巻き込まれ、危うく植民地にされかかったのであって、鎖国が故に植民地化を免れたなどと言うことはありえないことだ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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