「江戸時代の小食主義」考

若井 朝彦

つい先だって今月22日のこと、ヤフーニュースのヘッドラインに

【糖質制限 ライス残しに店困惑】
糖質制限ダイエットがブームとなっている影響で、飲食店でのライス残しが多発しているという。従業員からは困惑の声。

という記事が出ていた。

『日刊SPA』からの転載。記者は北村篤裕氏。提言としては有益な記事だと思うのだが、やや生煮えの感があるものだった。

あるレストランが、ランチタイムの作業効率、客席の回転を考え、ライスの量は一定にすると決めているのだとすれば、ライス残しはレストランの責任でもあろうからだ。(わたしの若干の経験からしても、これが普通の町場のレストランだと思う。そもそも「定食」という名称は、個々の事情には対応しませんよ、という意味であって、定食=サービスランチの価格は、規格品であるからこそである。)

それでもライスを残す人が多いのが気になって仕方がないというのであれば、お客さんが気軽にライスの量を指定できるシステムをレストラン自身が構築すべきであろうし、それがレストランにとってもあらたなチャンスになるはず。たしかに記事もこのあたりを追っている。

だが取材したレストランが少なかったためなのか、それとも店員の談話の整え方が強引だったためか、記事全体の構成はいくらか弱い。その弱さを補うように、逆に尖った言葉を使っている。

「米粒を残したら、目が潰れる」という言い伝えが日本にあるように、食が豊かでない時代には米は貴重なものだった。

さてここからが今日の本題である。記事にあった、因果めいた言葉

「米粒を残したら、目が潰れる」

は日本のもったいない精神の代表的な言葉かもしれないが、それはどこまで一般的であるといえるのだろうか。

お客として呼ばれたときに、出された食事をきちんと食べなくては失礼だ、という民族もあれば、残さなければ失礼だという民族もある。これはそれぞれの民族の習俗に属することなので、どちらが正しいともいえない。ただ日本は残さないという方向の国であることはたしかだ。

江戸時代の文献をあたっていると、すくなくとも文化文政のころ(19世紀初頭)には、出されたものは平らげないと先方の機嫌を損ないかねないので心配になる、といった内容に遭遇することがある。

だがこれに隣接して、無理をして食べきってもからだにいいことはひとつもない、という主張も現れる。

余計に食べるということは、余計に消化せねばならず、その分まず余計にからだを使う。しかしそれだけでは済まず、余計に体内に入った栄養を代謝するのにさらに余計にからだを使わなくてはならない、というわけである。江戸時代のことであるから、「消化」「代謝」という言葉は使わないが、余分に食べるくらいなら残せという主張はたしかに存在していた。(貝原益軒もこれに近いのだろうが、具体的な観察よりも、むしろ教条的な説明が勝っているようである。)

例をひとつ挙げよう。井上正鐵の『神道唯一問答書』。以下はその中にある「麁食少食」の項目を現代の言葉に置き換えたもの。(原文はこの記事の最後に掲出)

 人というもの、美食大食に耽るようになれば、身体は壊れ、気分も沈みこんでしまう。身辺かならずや貧しくなり、やがて慢心まで生じよう。

 美食大食になじんだ者は、食に困る者を思うこともなく、人の苦しみをどうにかしようともせず、わが身のことだけを考えるからそうなってしまうのだ。

 自分の食事をすこしでも残すことで、人の飢えを救おうとする心がない。田畑を耕す人に感謝しようともしない。

 それに加えて美食大食は、血を重くし、気を弱らせ、怠ける心を起こさせる。

 神の意に背くとはこのことだ。やがて加護も薄くなり、苦労や禍から逃れられなくなるだろう。

 また美食ばかりで働くことをしない者には、癇癖があらはれる。塞ぎ込んだり、また怒りちらしたり、そうかと思えば性欲の虜になる。

 豊かな家に育つて、子供時分より怠惰美食だった者はなおさらだ。

 恐るべきは美食大食であり、絶対に避けるべきなのだ。

美食大食は、徳も体も心も壊す、そう井上正鐵は言っているわけだ。論の運びにやや粗いところがあるが、これは天保13年(≒1842)、身辺の危機に際して、短時間に自分の思想を口述したからであろう。

このごろの小学校ではどうか知らないが、我々のころの給食は全部食べろというもので、残すことは極度に嫌われた。食べ残しが多いということは、たしかにとても悲しいことではあるが、かといって個人個人が、その体と体質に応じた食事が摂ることが容易ではないというのもまた理不尽である。美食を一概に否定することもない。その一方で、小食はまだまだ肯定的に扱われるべきではないかとも思う。

「米粒を残したら、目が潰れる」という言葉が歴史的にどこまでさかのぼれるのかさしあたって不明だが、その社会的語相はかなり統制的で一面的であり、もし使うにしても細心の匙加減が必要な言葉だと、わたしには思われる。

『神道唯一問答書』より「麁食少食」
(1898年の加藤直鉄版に句読点を附し、改行を施した)

 問曰
 其許は常に麁食少食がよろしきとの御教に御座候が、いかゞのゆゑに候や。
 答曰
 美食大食を好み候へば、身體を破り、心はくらくなり、必ず身貧に成行申候て、慢心おこり申候。
 其故は大食美食を好み申候者は、人の食の不足するを思ふ心なく、人の苦を助け救ふの心なく、只々我身の益のみ思ふものなり。
 我一飯をのこして人の飢を救ふの心なく、百姓の労を思ふ心なし。
 又大食美食は気血濁りて、心自ら惰弱になりゆくものなり。
 故に神明の御心に適ひ申さず、加護うすくなり候まゝ、苦労禍絶ずして貧なるものなり。
 又常に美食のみなして身體を働ざるものは、癇症の病強くなりて、塞ぎ又は怒り或は深く色に溺るものなり。
 故に福貴にして身を働さず小児の時より美食をなしたるものは、必ず癇症の病強く色に溺るものなり。
 恐れ慎むべき事なり。

 2016/05/24
 若井 朝彦(書籍編集)

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