北条早雲は下克上の英雄でなく幕府のエリート官僚

2016年06月18日 06:00

歴史に謎はない(戦国編)

かつて少年時代に読んだ歴史物語では、彼のことを素浪人が姉妹の嫁ぎ先である今川家の食客となり、それをそれを手がかりに伊豆を乗っ取ったのを手始めに戦国大名にのし上がった下克上を象徴する人物だと書いてあった。

そのときから不思議だったのは、どうして素浪人の姉妹が名門・今川家の夫人だったのだろうかということだった。

真実はどうかというと、のちに北条早雲と通称されることになった伊勢新九郎宗瑞は、将軍義尚の取次、いってみれば首相秘書官のような職に就いていた第一級のエリート官僚だったのである。

伊勢氏というのは桓武平氏の一門で、代々、室町将軍世子の養育や政所(領地や財政についての裁定機関)の執事を努めていた家である。

北条早雲早雲は備前に領地を持っていた分家の出身らしいが、将軍側近の官僚として頭角を現していた。今川義忠に姉妹が嫁いだのも不釣り合いな縁組みではない。そして、義忠が早世したので、甥である氏親(義元の父)のために駿河へ下向し甥の後見役として駿河東部に領地を貰い乗り込んだのだ。

そのころ、伊豆にあった堀越公方政知が死んだあと、庶長子の茶々丸が政知の正室と嫡男である弟を殺して簒奪する事件があり、一方、同じ正室の子で京都天竜寺にあった義澄みがたまたま将軍になった。こういう状況のもとで、早雲が茶々丸を幕府の意向に沿って追放したということだ。

さらに、小田原を攻略したのも、扇谷上杉(相模守護)のお家騒動に介入した結果で。、将軍義澄からも追認されている。

北条と改姓したのは、氏綱の時であるが、このころになると、氏綱は関東公方との間で、、鎌倉幕府の将軍と執権北条氏の関係のアナロジーを求め、そのために同じ平氏であった北条氏を名乗ったのだろう。結局、古河公方家は小田原落城まで北条氏の名目上の主君として大事にされた。それを足利義昭との関係で真似ようとしたのが同じ平氏の織田信長なのだが、そのあたりは、すでに論じたところだ。

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八幡 和郎
ソフトバンククリエイティブ
2012-04-19
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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