複雑すぎる組織が招いた責任所在の不明瞭化

岡本 裕明

かつての会社の組織はわかりやすさがありました。平社員の上に係長がいて、その上に課長、部長、役員、社長であります。その直線型の組織形態は下であげた声が上まで届きやすい仕組みであったといえます。会社や組織によってはそのコミュニケーションラインを課長、部長あたりが節目になってそこで止めてしまう動脈硬化はありますが、それでも問題の原因を突き詰めるには容易だった気がします。

今の組織はプロジェクトチームや第三者委員会、社外取締役、有識者委員会といった様々な名称の「こぶ」がコミュニケーションライン上に生まれています。その「こぶ」は特殊な権限を持つ場合もあるし、意見をするだけの場合もあります。会社のトップ人事を決めることもあれば意見だけ聞いてあとは社長マターというケースもあります。

この組織の「こぶ」は会社のみならず役所を含むあらゆる団体で増えてきています。

私がバンクーバーのNPOで20年近く役員をやっているなかで「こぶ」はごく当たり前の運営形態でありました。なぜならばあることを実行するのにいちいちNPOの役員会で諮っていては議論百出でものが進まないからです。そのために担当ごとにチームを作り、それぞれのこぶが一定の権限と責任感を持って担当作業を進め、役員会でその進捗を適宜報告、またイベントなどが終われば反省会を開くという流れでした。

この仕組みがワークしたのは役員会=組織中枢そのものが極めて少人数である「小さな政府」状態が背景にあります。一人一人の権限と責任が明白でそこに期待されているものも組織を通じて認識されています。結果としてそれがうまく機能しなければ機能させるように担当配置を見直したり、権限そのものを見直すことにつながります。

このやり方は組織の一つひとつがより活性化し、コミュニケーションが進み、発展的ディスカッションができていると認識しています。

東京都の豊洲盛り土問題では当時の担当部長が十分に状況を認識しないままハンコを押していたことがわかりました。かつて私が会社員だった頃、「俺はハンコを押すだけの仕事」と言っていた人がいました。あるいは同意したくなくてもハンコを押さねばならぬ時はめくら印にさかさ印、印のサイズが小さいハンコを押すなど抵抗を示した人も数知れず。

東京都の担当部長さんがハンコを押したのは盛り土をしていたと認識していた、と事実関係を掌握していなかったことにあります。「課長が全てを仕切る」と言いますが、部長さんが蚊帳の外であることは日本の組織でしばしば見受けられることです。「君、大丈夫なんだろうな」「はい、すべて確認済みです。」「そうか」この単純系の会話は組織の血行をよくさせるための常備薬ともいえましょう。

ではこの場合の責任は何処にあるか、といえば本来であれば担当がきちんと説明をしていなかった、あるいは隠ぺいしていた可能性でありますが、組織において責任は担当ではなく、長が取ることになっており、担当の処分は組織内でひそかに行われるのがしきたりともいえましょう。

では、業務や作業を「こぶ」に任せた場合はどうなるのかといえば新国立競技場問題で露呈したように誰が何をやっているのか全然わからなくなってしまうリスクが生まれてしまいます。それはプロジェクトが大きすぎて関連する事象が増大、「こぶのこぶ」の管理ができず、全体が掌握できなくなってしまうともいえます。また、会議では皆、言いたいことだけを述べ、その結論づけをきちんとしていないことによる宙ぶらりんがあいまいさを生み出すこともあるでしょう。

日本人は会議が大好きな民族であります。一つの事象を皆と分かち合うという文化的背景でしょう。「おすそわけ」や「稟議制度」「町内会や村落寄合」など基本的には小組織において価値観をシェアし、ディスクロージャーをする発想とも言えます。ところが問題はこの均一の会議空間はバトルの場と化し、それなりの主義主張を貫き、その上、人間関係という感情論がミックスされると権力で押さえつけない限り、絶対に一点に収まらないのだろうな、という点でしょう。それゆえ、仕切る人間の能力次第ではオープンエンド、つまり締まりのない何のための会議だかわからなくなる事態が生じるのです。

後々これが問題になると「そんなことは議事録に記載されていない」「記憶にない」「俺は関与していない」「知らなかった」という格好の理由付けができる状態を作り上げます。

世界の中央銀行の政策会議はその点、誰がどう投票したか開示されるため、少なくとも責任所在の曖昧さは少なくなります。これは冒頭のNPOの例のように会議参加者がせいぜい10人程度で収まっているからこそできる技であります。

テレビなどで時々映し出される政府の会議の模様。私からすればこれはいったい何なのだろう、なんでこんなたくさんの人が出席しなくてはいけないのだろう、と疑問符だらけであります。

これからオリンピックに向けて様々な会議が催されるでしょう。会議は取り仕切り能力、つまり議長の能力が全てであります。また、個人的には会議は10人までだと思っています。それ以上呼ばねばならない理由は会議出席者が事情を把握していないからであり、それは能力の欠如とも言えます。

会議は小さく、短く、これは多くの企業が取り入れているアイディアです。椅子がない会議もあります。立ってやるから早く終わるというわけです。また、会議テーブルが座る位置により権限を示す長方形というのも時代遅れだと思います。円形テーブルが会議のスタイルとしてはベストでしょう。

こんなところにも変わらなくていけない日本を感じてしまいます。

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 9月27日付より