北核問題の解決チャンスはあった

前日のコラムで創設60周年を迎えた国際原子力機関(IAEA)の核エネルギーの平和利用の歩みをは早足で紹介した。今回はIAEAの歴史の中で大きなダメージをもたらした北朝鮮の核問題について、簡単にまとめる。

▲北朝鮮使節団と協議するIAEA査察関係者(ウィーンのIAEA本部で撮影)

▲北朝鮮使節団と協議するIAEA査察関係者(ウィーンのIAEA本部で撮影)

IAEAは北の核問題を解決できる機会が少なくとも1度はあった。そのチャンスを生かしきれなかったIAEAは、北が過去5回の核実験を実施するのをただ「遺憾」の思いで眺めているほかはなかった。

IAEAと北朝鮮の間で核保障措置協定が締結されたのは1992年1月30日だ。今年で24年が経過した。1994年、米朝核合意が実現したが、ウラン濃縮開発容疑が浮上し、北は2002年12月、IAEA査察員を国外退去させ、翌年、核拡散防止条約(NPT)とIAEAから脱退。06年、6カ国協議の共同合意に基づいて、北の核施設への「初期段階の措置」が承認され、IAEAは再び北朝鮮の核施設の監視を再開したが、北は09年4月、IAEA査察官を国外追放。それ以降、IAEAは北の核関連施設へのアクセスを完全に失い、現在に至っている。

それでは北の核問題が解決できるチャンスは“いつ”だったのか。

90年代初め、IAEAではドイツ出身のビリー・タイス博士が北朝鮮の査察担当の課長だった。タイス氏は当時、北当局の信頼を受けて、IAEAの査察活動は順調であった。同氏は北朝鮮人民軍ヘリコプターで上空査察も許された唯一のIAEA関係者だったが、米国と連携して平壌に政治圧力を行使する政策に転換したハンス・ブリクス事務局長(当時)と対立し、結局、他の部署に左遷させられた。

IAEAは1993年2月、北に対し「特別査察」の実施を要求したが、北は特別査察の受け入れを拒否し、その直後、NPTから脱退を表明した。それ以降、北はIAEAを「政治的に運営された機関であり、公平ではない」と批判してきた。

タイス氏は当時、当方の取材に対し、「北は信頼を重視する。信頼を失えばもはや何もできなくなる。ブリクス事務局長は米国の要請もあって力の外交を選択してしまった」と説明していた。

タイス氏は北の軍ヘリコプターで寧辺周辺の核関連施設を上空から査察したが、同施設周辺が地対空ミサイルで防衛されていたのを目撃している。北は当時、IAEA査察官にそこまで視察を許したわけだ。タイス氏を信頼していた北がIAEAの特別査察要求に接し、その信頼を完全に失い、対立路線に変更していったわけだ。

思い出してほしい。ノーベル平和賞を受賞したエルバラダイ事務局長(当時)が2007年3月、核合意の早期履行のため勇んで訪朝したが、北政府高官との会談はやんわりと断られている。国際通信社からは、平壌の3月の寒さに震えるエルバラダイ氏の姿が映った写真が配信されたが、それは北のIAEAへの不信感を端的に表していた。北はエルバラダイ氏を特別査察作成者と受け取り、嫌ってきた。ノーベル賞の威力は北には通じなかったのだ。

もちろん、IAEA査察官の一人に対する信頼で北の核計画が解決されるとは考えないが、少なくとも、北との対話路線を堅持して解決のチャンスを待つことはできたかもしれない。そのチャンスは、ろうそくの火のように、小さく、ささやかなものであったかもしれないが……。(IAEAは昨年、13年の歳月をかけて交渉してきたイランの核問題協議を国連安保常任理事国(米英仏露中)にドイツを加えた6カ国と連携して解決の道を開いた)

故金日成主席、故金正日総書記の時代は過ぎ去り、北は3代目の金正恩党委員長時代に入った。北は核保有国の認知を目指し、もはや核計画を放棄する考えはないだろう。IAEAにとって、北朝鮮の核問題は大きな教訓として残されている。

なお、天野之弥事務局長の3選はほぼ間違いない。天野事務局長は任期中にイランの核問題の検証を進める一方、北朝鮮の核問題解決の“第2のチャンス”を待ち続けることになるわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年9月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。