ボブ ディラン氏がノーベル賞をもらう時代になったか、と思うとノーベル財団もずいぶん変質化したと感じます。ノーベル賞のうち、自然科学部門は従前通り長年研究に従事してきた学者、研究者の功績をたたえるものが多いのですが、平和賞は割と驚くような受賞者が多かったのはご承知のとおりです。
しかし、文学賞についてはある程度著名な書籍として世界各国で翻訳され、広くその内容について認知され、共感されていることがかつての流れでありました。その点、ボブ ディラン氏はシンガーソングライターであり、歌を通じて世界にそのメッセージを伝えてきたという点で選考委員会が新しい切り口で臨んだということなのでしょう。
いわゆる賞の選考委員会の選定方向は主に二通りあり、今までの流れを踏襲した流れで次の受賞者を探る保守的選出と今回のように全く新しい切り口にする場合があるかと思います。私も小さいながらもある団体の賞の選考委員を何度か務めましたが選考にあたり、例年通りの流れで考えると候補者がいるのか、そしていない場合、どういう発想の展開があるのか、と問答していました。とすれば、今年の文学賞は従前の候補者の中に絶対的強みを持つこれは、という候補がいなかった可能性があります。
村上春樹氏はこのところずっとその候補者の上位にあるようですが、今年も受賞を逃したとして話題になっています。彼とボブ ディラン氏の共通点は民主的で民の声に重きを置いていることに対して違いは時代の声の反映度かもしれません
ディラン氏の受賞のキーとなった「風に吹かれて」の詩はどうなっているか、ウィキから拾ってみました。
「『どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか』『為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか』『一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか』『人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか』というプロテスト・ソング風の問いかけと、『人はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか』『山が海に流されてなくなってしまうのに、どのくらいの時間がかかるのか』という抽象的な問いかけが交互に繰り返されたあと、『答えは風に吹かれている』というリフレインで締めくくられる」(以上ウィキより)とあります。
明らかに反戦歌であり、当時数多くヒットした反戦歌ブームの中でも人々の心に強く訴えた曲の一つであります。今、なぜ、これが戻ってきたのか、私は時代背景がそうさせた気がしてなりません。
世界のあちらこちらで起こる不和、そして争いを我々現代社会は無抵抗で、一部の国家主導の戦いにとどめてよいのだろうか、という大きな提案をしているようにみえます。個人的にはノーベル賞選定委員会の一定の思想が入った新しい切り口と感じました。
とすれば、文学としてのポジションは今後、競争が激しくなり、音楽のみならず、あらゆる芸術を通じたメッセージがノーベル文学賞の対象になりうるとも言えます。
もう一点、私が思ったのは英語がノーベル賞受賞のキーになることです。ボブ ディラン氏の歌は世界中に英語の歌として広まり、聴かれ、支持されてきました。それは英語故に理解されやすいということです。これが日本語でもドイツ語でも都合悪いのです。なぜなら、フォロワーが少なく影響力が少なくなる負い目があるからです。
ところで日本でノーベル経済学賞受賞者がなぜ生まれないのか、という報道でも英語による発信、学会での発表、学者間での派閥づくり、そしてその考え方のフォロワーづくりができる人が少ないから、とされていました。きっとそうなのでしょう。
自然科学は圧倒的研究があれば何語であろうとそれをフォローしますが、人文科学はアピールが全てなのかもしれません。その点において英語でプレゼンテーションできることがノーベル賞受賞には今後、大きなキーワードとなると思っています。
最後に村上春樹氏の件ですが、今回、受賞できなかったと分かったと同時に「なぜ受賞できないのか」という専門家の記事、ニュース等が噴き出してきたのにはびっくりします。応援しているのか、蹴飛ばしているのか、メディアの注目だけを集めたいのか、ずいぶん軽薄だと思ったのは私だけでしょうか?
個人的には氏の作品の6-7割は読んでいると思いますが、最近の作品が今一つだったと感じたのは技巧的であったけれど村上春樹氏の描く主人公の若くも寂しい「僕」がノルウェイーの森と海辺のカフカの時代から成長していないからかもしれません。それと彼の作品に出てくる「僕」のイメージが独特のキャラクターを持たせ続けている点で好き嫌いが出やすいと同時にその背景を含めた理解の度合いに色が出るのかもしれません。
ノーベル賞がなんだ、という声もあるでしょう。日本は自然科学部門で素晴らしい実績を上げているではないか、とする声も多いでしょう。しかし、私も人文系の学部を卒業した者として頑張ってもらいたいのは当然であります。また来年に期待しましょう。
では今日はこのぐらいで。
岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 10月14日付より