フランシスコ法王は11日、教会の聖職を断念し、結婚した若い元神父たちを訪ねた。バチカン放送独語電子版が同日、写真付きで報じた。
それによると、フランシスコ法王は同日正午、ローマ近郊の一軒の住居で7人の元神父たちの家庭と会った。7人は同じ宿命を持っていた。彼らはローマ・カトリック教会の神父だったが、聖職者の道を諦め、結婚したのだ。「法王は彼らに暖かい手を差し伸ばした」という。なぜならば、独身制を破り、家庭をもった元神父たちは教会から「堕ちた神父」と受け取られ、周辺の人々から冷たくみれてきたからだ。
バチカン放送によると、彼らは数年間、教区の聖職に従事したが、孤独と無理解に遭遇、牧会に全力を投入したが疲れを覚え、聖職者の決心が揺れ出したという。そのような状況が数年間続き、不確かさと疑惑が高まり、「神父となったのは間違った決定だった」という思いが高まっていったという。そして聖職を断念し、家庭をもったわけだ。
バチカン放送の記事はそれで終わっている。聖職を断念し、家庭を持ってから子供ができた。その元神父は今、何を感じているかという点には何も報じていないのだ。
聖職を断念するまでの元神父の内的葛藤世界は理解できる。聖職の道を神の召命と信じて、神父の道を歩み出した人間にとって、如何なる理由からにせよ、それを断念することは大変だ。葛藤は当然だろう。
繰り返すが、バチカン放送は元神父の聖職断念までの苦悩の日々を描写したが、教会を離れ、家庭をもった後の元神父の心の世界には何も言及していない。普通のジャーナリストならば、「あなたは今、幸せか」と聞くだろう。
ただし、バチカン放送のサイトに掲載された元神父の顔はいずれも笑顔だ。自分の娘をフランシスコ法王に見せる若い元神父の姿はどう見ても幸せそうなのだ。写真は元神父の心を鮮明に語っている。
元神父が、「神父時代より自分は今幸せであり、子供は喜びだ。家庭を築くことはいろいろな困難さも伴うが、それを妻と共に乗り越えて行くため努力している」と答えたならば、その記事を読んだ多くの若い神父たちは考え出すだろう。バチカン側が恐れているのはその点かもしれない。
バチカン放送にとっては、教会から“堕ちた神父”と受け取られている元神父たちに慈愛の手を差し伸べるローマ法王の姿を示すだけで十分だったのかもしれない。
世界には聖職を断念し、結婚した元神父たちが数万人いるといわれる。彼らの多くは教会から独身制を破った「堕ちた聖職者」と受け取られ、冷たく扱われるケースが少なくない。
カトリック教会では通常、聖職者は『イエスがそうであったように』という理由から、結婚を断念し、生涯、独身で神に仕えてきた。しかし、キリスト教史を振り返ると、1651年のオスナブリュクの公会議の報告の中で、当時の多くの聖職者たちは特定の女性と内縁関係を結んでいたことが明らかになっている。カトリック教会の現行の独身制は1139年の第2ラテラン公会議に遡る。聖職者に子供が生まれれば、遺産相続問題が生じる。それを回避し、教会の財産を保護する経済的理由が(聖職者の独身制の)背景にあった。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年11月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。