「保育器の中の平和」が終わる


南スーダンPKOへの自衛隊派遣で、「駆けつけ警護」が問題になっている。自衛官が殺されたら稲田防衛相の進退問題になる可能性もあるが、逆に自衛官が反政府ゲリラを殺したら殺人罪に問われるリスクもある。こんな中途半端な状態で派遣するのは危険だ。

いまだに世の中には、自衛隊の海外派遣に「日本が戦争に巻き込まれる」と反対する人々がいるが、軍事同盟というのは同盟国の戦争に巻き込まれることもあれば助けてもらうこともある。巻き込まれることを拒否したら、助けてもらうことはできない。

1950年に吉田茂も「巻き込まれ」を恐れて、再軍備を拒否した。アメリカはニクソン副大統領が来日して再軍備を要請するアイゼンハワー大統領の天皇あての親書を渡し、公式演説で「憲法第9条は誤りだった」と表明したが、吉田は彼の路線を守った。

このように日本政府は米軍基地を国内に置いて国を守る「裏の国体」をみずから選択し、その後もこれを守ってきたのだから、「押しつけ憲法」を非難する自民党は間違っている。もちろんそれを「永続敗戦」などと呼ぶ平和ボケは論外だが、左右ともに「属国」状態へのルサンチマンは同じだ。

集団的自衛権は保持するが行使しないという非論理的な1972年の法制局見解は、沖縄返還にあたって米軍基地からベトナムに発進する爆撃機に日本政府が責任を負わない、というただ乗り宣言だった。このように金は出すが血は出さない日本政府の方針は吉田ドクトリンの延長上で、米軍に「保育器」の料金を払って守ってもらおうという話だ。

しかし戦後日本の長すぎた幼年期は終わった。米軍を助けないで、いざというときは助けてもらおうという虫のいい軍事同盟が、いつまでも続くはずがない。アメリカが「世界の警察官」だったときは極東の軍事基地が必要だったので日本は金だけでよかったが、これからは血も求められる。集団的自衛権の行使はその第一ステップだ。

トランプ大統領が次のステップを踏み出すかどうかは不明だが、アメリカが今以上に東アジアへのコミットメントを強めることはありえないので、日本が世界の警察官の役割を一部肩代わりすることは避けられない。安保法制はそれに向けた正しい一歩だが、あと何歩も踏み出さないと東アジアの平和は守れない。