人を顔に見る?

北尾 吉孝

『企業家倶楽部』2016年12月号に「顔で損する人、得する人」という、ある大学教授の記事がありました。人間、顔であらわれる部分というのも勿論あると思います。例えば、エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)も「四十を超えたら、自分の顔に責任を持て」という言葉を残しています。

知人がリンカーンの所にやってきて、「この人をあなたの下で働かせてくれないか」と、ある人物の紹介をしました。彼にとってその知人は恩人とも言える人でしたが、結局その依頼を断ったのです。その理由は「彼は顔が悪い」というものでした。

あるいは、あのナポレオン・ボナパルトを失脚させたアーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)もリンカーン同様、やはり顔に一面出て来るその人間の品性、生き方や考え方を見て人を判断していました。その典型が言ってみれば人相学というものに繋がっていて、中国でも長年に亘り人相というものを大事にしてきています。

尤も、顔での人物判断には必ず失敗があります。孔子でさえ澹台滅明(たんだいめつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かった為「大した男ではなかろう」と思っていたら、実は大人物であったという失敗談が『論語』にもある位です。ちなみに澹台滅明は、同じく孔子の弟子である子游(しゆう)が武城という国の長官となった時、部下として取り立てられ、その公平さを賞賛されています。

また顔だけでなしに、人間、背中であらわれる部分もありましょう。例えば、『孟子』に「面に見(あらわ)れ、背に盎(あふ)る」とあります。安岡正篤先生が之について次の通り、「人間は面よりも背の方が大事だ。徳や力というものは先ず面に現われるが、それが背中、つまり後姿――肩背に盎れるようになってこそ本物といえる。後光がさすというが、前光よりは後光である」(『照心語録』)と言っておられます。

何れにせよ、顔でどうこうと人物を判断するは、極めて難しいことだと思います。『論語』に、「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず・・・人に対して御世辞を並べ、上辺の愛嬌を振り撒き、過ぎた恭(うやうや)しさを示すのは恥ずべきことである」(公冶長第五の二十五)とか、「巧言令色、鮮(すく)なし仁」(陽貨第十七の十七)、「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」(子路第十三の二十七)といった孔子の言がありますが、愛想の良い顔付きには気を付けるべきでしょう。

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