変わっちゃいねえよ、リスボン。

リスボンいわし

リスボン。20年ぶり。
タクシーの運転手「20年ですっかり変わったよ」。そうですか。
どれほど変わっただろう。
窓から下がる洗濯物は減っただろうか。イワシを焼く煙は減っただろうか。路面電車は減っただろうか。
変わっちゃいねえよ。
洗濯物だらけだ。
西洋人がアジアをエキゾチックと見るように、東洋人の目にこれぞエキゾチックと映るのがポルトガル。
その風情は衰えてはいません。
多少こぎれいになり、エスクードがユーロに変わった程度で。
イワシもそのまま。炭で焼いて塩で喰う。サカナの喰い方を知っている。
ポルトガルと日本は仲良しだよね、と感じさせてくれます。でも、日本語メニューは店から失せた。
国力が下がった。と思う。
前回訪れたのは95年の春。阪神淡路大震災の直後でした。ここが1755年の大地震と津波で6万人を亡くしたことを知りました。今もその姿をとどめる廃墟。
これは震災前のリスボンを描く数十メートルものタイル・アズレージョ@国立アズレージョ美術館。映像の記録。
ヨーロッパ最西の都市。ロンドン、パリ、ローマより数世紀前からの都市。
3.11の直後、この街をバックに消臭力のCMがぼくたちを励ましてくれたのは記憶に新しい。
ミゲルくん。ありがとう。
「情熱のシーラ」14話「リスボンの憂い」が描く第二次世界大戦時のリスボンは、黄色い路面電車が歩き、ファドが響くアズレージョの町並みでスパイが暗躍します。その気配、そのまま。
(故障とか言って途中で降ろされた)
ヴィム・ヴェンダース95年作品「リスボン物語」は映像を集めるための旅の物語。録音技師が映画監督を追う。「映画が生まれた頃のまなざしで撮りたい」と叫ぶ。手回しカメラと録音機でリスボンを撮る。
ここは撮りたくなる街。
それから20年、映像は大衆化しました。ヴェンダースは「撮る」ことを今どう見ているんでしょう。リスボン物語に流れた「マドレデウス」の演奏を聴きながら、ぼくは網膜の記憶を上塗りします。
1584年には天正少年使節がこの教会に一ヶ月いたそうです。
彼ら、13歳だったんですよね。どんな連中だったんだろう。
伊東くん、中浦くん、千々石くん、原くん。会ってみたいなぁ。
イワシの塩焼き、喰ったか?
このトゥクトゥクぽい乗り物は以前はなかった。
この東南アジアっぽい情景はポルトガルに似合います。
早くからアジアに進出していたからなのか、混沌とした歴史の中で雑多なものが入り組んできた場末感のせいなのか。
こんな二人乗り電動車があちこちでレンタルされてます。
トヨタ様、i-ROADは観光地でこういう用途がいいのでは。京都あたりで。
独り身のころ。
土曜半ドン、1200円の渋谷サウナで水分ぜんぶ出して、東横の地下でコレ買って、バスで寮に戻って一気飲みしながら、「テレビあっとランダム」をみる。
もっと生産的なことをしていたら人生は変わっていた。
ポルトガルのラブホ。
ではない。世界遺産だそうです。
ドイツのノイシュバンシュタイン城を作った人のいとこが作ったそうで。
そして、コインブラに来ました。
ポルトガル第3の都市。大学を中心とする文化の中心。
リスボンが東京、ポルトが大阪とすれば、さしづめ京都か。
いや、狭い路地を馬が往く文化の十字路は、姉妹都市、モロッコのフェズに近い。
欧州の名門、コインブラ大学。
設立は1290年。ボローニャ大学の2世紀後にできた。学生たちは今も黒マント姿です。
仔山羊のワイン煮「シャンファーナ」を喰い、街角の哀しいギターを聴いていると、「嘆きのボイン」を口ずさみたくなった。
ちっちゃいのんがコインやでぇ。
そうか、月亭可朝師匠はこの世界観だったのか。
これがホンマのファドやおまへんか~。
ローマ、イスラム、ムーア人の支配を経て、海からの敵の侵入を防ぐため砦が築かれたオビドス。
クロアチアのドブロブニクより、こっちの壁のほうが巨人は壊したがりそうです。
1番の乗車券を持ってバスに乗ったら、痩せたヒゲ男が1番2番の席を占拠している。
そこボクの席だがというと、オレのだと言いはってヒゲが見せた券には12番とある。
ヨーロッパの青いバカでた~w。好きだ~っ。
こんなかんじのオヤジ。
後ろのフランス人夫妻にお前が間違っていると諭されてしぶしぶ12番の一席に移ったが、ずっとケータイで誰かに怒鳴っていた。人生楽しそうだ!
で、リスボンのイワシですが、民族の威信にかけて、ワタも頭も骨もきれいにいただきました。

 

食堂のおばちゃんは、当たり前だ、てな顔をしてました。

編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2017年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。