「金ファミリー情報」は最大タブー

長谷川 良

李雪主夫人を伴い、遊園地の視察に訪れた金正恩氏(新華網サイトより:編集部)

マレーシアのクアラルンプール国際空港内の「金正男暗殺事件」について、北朝鮮の国民はほとんど知らされていない。「金正男氏」の存在すら知らない国民が多い。ましてや、金正男氏が金正恩労働党委員長の異母兄に当たるという情報はまったく知らないだろう。

北朝鮮の朝鮮中央通信(KCNA)は23日、正男氏暗殺事件を初めて報じたが、「わが共和国公民が飛行機搭乗前に突然ショック状態に陥り病院に移送される途中で死亡したことは、思いがけない不祥事としかいいようがない」と報じただけだ。正男氏の名前も親族関係である事実も何も言及していない。

北朝鮮では故金日成主席、故金正日総書記、そして金正恩党委員長の3代の世襲国家だが、その金ファミリーに関する情報は最大のタブーと受け取られてきた。

北の国営メディアも公式行事やイベントに出席する指導者の名前を公表するが、その家族構成や関係については報じない。それを知ろうとすれば、金ファミリーの動向を探るスパイと受け取られ、政治収容所送りか、悪くすれば処刑されるのがオチだ。北の国民はそれを知っているので金ファミリーについて敢えて知ろうとしない。

ウィ―ンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)で唯一の北朝鮮査察官だった金石季(キム・ソッケ)氏は「君、核問題については答えられる範囲、返答するが、金ファミリーについては質問しないでくれたまえ」と口癖に言っていた。同査察官は人民軍幹部出身のエリート層に入るが、金日成主席や金正日総書記については絶対に口にしてはならない点で他の国民とそう変わらないわけだ。

北の特殊工作員が、1982年にソウルへ亡命した李韓永氏(故金正日総書記の元妻・成恵琳の実姉の息子)を暗殺した事件が1997年に起きた。李韓永氏が亡命後、金正日総書記とその家族構成などをメディアに流したことが平壌の怒りを買ったといわれた。すなわち、北の最大のタブーを破ったからだ。

金正恩氏の生年月日も公表されることがないので、日韓米メディアは正恩氏の年齢一つにしても確信をもって報じられない。全ては「金ファミリーに関する情報」はタブーであり、公表してはならないという不文律があるからだ。それを犯す者は親族とはいえ、最大の刑罰が下される世界だ。

それでは、なぜ「金ファミリーに関する情報」はタブーなのか。考えられる理由を羅列する。①独裁者の家族の安全を守るため、②金ファミリーの実生活が外部に漏れた場合、その格差に嫉妬したり、激怒する国民が出てくるのを防ぐため。反ウォール街運動、「われわれは99%」といった格差是正を求めた北版抗議運動を生み出す恐れがある、③独裁者の神聖化のため、④監視社会に生きる国民の不安などだ。

なお、マレーシアの金正男氏暗殺事件が北の仕業と判明したことを受け、韓国軍は南北軍事境界線付近に設置されている拡声器で事件を北の国民に知らせ、金正恩政権の残虐な行為を批判しているが、北側の強い反発が予想される。

興味深い点は、正男氏暗殺の実行犯として逮捕されたベトナム人女性がフェイスブックなどで職を探している時、北側のオファーが届いたと言われているが、北はネット情報にも小まめに目を通し、情報を収集していることが考えられる。

世界はグローバル化し、特に情報世界のグローバル化は急速だが、北はその恩恵を受ける一方、「金ファミリーに関する情報」を含む国内情報の流通は厳しく制限している。「外の世界」と「内の世界」との情報の流通格差は益々拡大してきた。換言すれば、北は、情報のインプットとアウトプットが異常なまでにアンバランスな社会だ。

金正恩氏は政権就任後、李雪主夫人(ファーストレディ―)と公式行事に顔を出す一方、政治イベントで自ら演説するなど、新しい世代の登場を世界に印象づけたが、その流れはここにきて停滞してきた。オープンな情報開示の世界は独裁政権とは相いれないことを正恩氏は理解し出したのだろう。「金ファミリーに関する情報」は金正恩氏時代に入ってもやはり最大のタブーだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年2月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。