私にとっての読売新聞とは④

2017年08月01日 17:00

衆議院インターネット中継(編集部)

前川文科次官をめぐる読売報道は、過剰な記事審査プロセスからは説明ができない。あれほど組織防衛に長けた新聞社にしては、あまりにもずさんな結果だった。結果的に社会的評価の低下と部数の減少を招き、相当の不利益を受けた。だが処分はされない。なぜなら、そこには読売新聞を貫くもう一つの独裁的な意思決定プロセスが存在しているからだ。記事は、硬直化した上意下達システムによって書かされたのである。

個人を責めてもしょうがない。トカゲのしっぽ切りは、組織延命の手段でしかない。個人が覚醒しない限り、独裁システムという千丈の堤にアリの一穴を開けることはできない。

独裁は独裁者による創造物ではない。独裁を受ける大多数の者が、飼い慣らさせることによって生まれる災難であり、不幸である。事なかれ主義が招く責任の回避は、自由と権利を放棄し、不作為こそが幸福なのだとする自己暗示に結びつく。外へ目が向かずに、井の中の座標軸でしかものを考えられなくなる。相対的な見方を欠けば、懐疑精神は殺され、独立した思考も生まれない。タコツボの中に隠れ、自分の軸はぶれていないと信じてはいても、そのタコツボ自体が浮遊していることに気付くことはない。

集団主義に埋没し、安逸に流れれば、いずれ個人の思考はマヒし、服従と隷属が精神をむしばんでいく。自由と権利を貫くには、大海原に翻弄されながら方向を失わぬよう、たゆまぬ緊張と努力が必要だ。それから逃れようとする怠慢は、波に漂うしかなく、服従と隷属に加担する。自由な議論、真理を探求する議論ではなく、大勢に従っていく沈黙が支配する。

一方で真理や正義を語る二重基準を使い分けるため、自己欺瞞のレトリックのみが発達する。懐疑精神がマヒしている以上、良心の痛みも感じない。独裁とはこうしたイメージの中で語れるべきだ。覚醒はそのレトリックを脱することから始まる。

私は北京駐在時代、特ダネを連発し、不可解な「安全」を理由にした特ダネ禁止令、そして緊急帰国命令を受けた。報道機関としてあるまじき事態だと判断した。私は新聞の利益を主張して拒否し、帰国命令は撤回された。だがすべての手続きは不透明で、不公正だった。だれもがタコツボに閉じこもり、責任ある発言をしなかった。

今回の読売問題について、私はあのときと同じ匂いを感じている。

以下に再び、拙著『習近平暗殺計画 スクープななぜ潰されたか』から引用する。

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この一件(※緊急帰国命令)で感じたのは、不合理で不条理な決定が実行されているにもかかわらず、あるいはその不合理さ、不条理さに気づこうともせず、上からの命令をなんの苦慮やためらいもなく、あたかも思考停止ボタンを押したかのごとく、機械の歯車のように効率的に規則正しく遂行していく組織の恐ろしさである。

国民の知る権利、言論の自由、民主主義社会を支えるべきメディアが、内部で全く議論をせず、沈黙し、唯々諾々と上意下達に従う組織であるならば、「社会の公器」としての公共性にかかわり、公益を損なうことになる。社会正義とは相容れない深刻な事態である。言論の自由を錦の御旗に各種恩恵を受けているメディアが、内部には言論の自由を否定している二重基準は、新聞社の欺瞞、偽善を物語るものでしかない。そこに正義は存在していない。

私に関する一連の騒動が起きている中、東京の国際部では部長と筆頭デスクがせわしなくこそこそと動き回っている姿に、部員たちはみな何らかの異変を感じていたが、とうとう真相を知らされることはなかった。原稿が届いているのにもかかわらず、突然、コラムの担当が外されたことに(※緊急帰国命令を忖度し、編集現場は私のコラム担当を本人との話し合いもなく外し、すでに出していた原稿をボツにした)、何も知らされていない周囲は「聞いてはいけないこと」を察知し、押し黙ってしまう。

真相を究めるべき記者たちが、肝心の事柄から目をそらし、どうでもいい、当たり障りのないものだけを論じて満足している。これでは報道機関の社会的責任をどうやって外に訴えることができようか。

東京から出張者が来るたびに聞かされるのは、社内の厳しい管理体制の中で仕事をする息苦しさである。どうして議論をしなくなってしまったのか。どうしてそんなに物わかりのよい者たちばかりになってしまったのか。口を開けば会社の悪口や愚痴を言うが、ではなぜ面と向かって戦おうとしないのか。

現場の記者は「デスクが勝手に原稿を直してしまう」と文句を言うが、自分の作品を守るためとことん戦ったことがあるのだろうか。寛容は外部からの批判に対して求められるべき報道機関の態度だが、社内における寛容は大勢に従う無原則、無責任の表現に過ぎない。

むしろ東京のデスクから指示がなければ、どう書いていいかわからない記者も少なくない。原稿の書き方や切り口、トーンについて、東京からどんな無茶な注文が来ても、喜々として従って器用に原稿を書き上げる記者がいる。それが責任を負わずに済む手っ取り早い生き方だ。責任を逃れるために、自由を犠牲にしてもよいと考えている。

自由を守るのには強い覚悟と、継続した努力が必要だ。これが責任重視の心構えである。だが責任を負いたくない者は、体裁のよいリスク重視に走ろうとする。事なかれ主義、官僚主義の横行は、もう限界まで達していると言える。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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