伝記「政治家・前原誠司~強運と上滑りの交錯」

2017年09月01日 18:00

民進党公式YouTubeより(編集部)

民進党の代表に前原誠司が選出された。順当だし、現在の民進党の置かれている状況からすれば、賢明な選択だろう。また、演説などを聴く限り、かつて感じた欠点のかなりが改善されているように思う。ただ、安倍首相が第一次内閣降板後、第二次内閣発足までした努力や反省に比べられるような進歩を遂げているのかどうかは、これからじっくり見させていただきたいと思う。

そして、その前提として、野田内閣当時の2012年2月に書いた「松下政経塾が日本をダメにした」(幻冬舎)から前原について書いた部分の要旨を紹介しておく。いまとなっては、別の感想もあるが、あえて、修正せずに紹介したい。

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「運と愛嬌」がありそうかを松下幸之助が入塾生の選考で重視したという。前原のころには、幸之助は入塾選考にかかわっていないが、この運を引きつけるところは、まさに幸之助ごのみかもしれない。運も能力のうちだ。しかし、上滑りで転んできたのも前原の軌跡だ。

国民的人気ということだけでいえば、前原誠司のそれは群を抜いていた。さきごろの民主党代表選挙を目前に控えた8月25、26日に、朝日新聞社が世論調査を行った。そのとき、回答者が次期首相の適任者として選んだのは、前原が40パーセント。海江田万里と原口一博の5パーセント、野田佳彦の4パーセント、さらにそれにつづく、馬淵澄夫、小沢鋭仁、鹿野道彦、樽床伸二などを大きく引き離していた

しかし、民主党代表をつとめたときには、偽メール事件で失脚。外務大臣のときは、外国人からの違法献金疑惑で辞任。野田政権のもとでは、政調会長になったが「いうだけ番長」などとあまり玄人筋の評価は高くない。

この卓越した国民的人気の高さや説得力の強さを、政治技術の甘さで損なっているのは、まことに惜しいことだ。

そもそも、前原の政界デビューは、なかなか華やかなものだったし、幸運の女神の加護を受け続けた。

前原の父は「ゲゲゲの鬼太郎」のふるさと、鳥取県境港市の生まれで、京都家庭裁判所総務課庶務係長を務めていた。金持ちではないが、まずまずの中流家庭であり、高級住宅街といわれる左京区に住んで、当時、全盛期でトップクラスの進学校だった京都教育大学附属中学に合格している。

京都では、かつて、京都一中(現・洛北高校)が全国有数の名門校だった。しかし、戦後、総合選抜制度がとられて公立高校は平準化し、私立が台頭したが、当時は教育大学附属中学・高校が全盛期にあった。このころの附属高校生といえば、ぴかぴかのエリートだったのだ。

ところが、前原が中学生の時に、父親は鉄道に飛び込み自殺をしてしまう。前原と母親は校外の山科に引っ越して、母親のわずかな稼ぎと奨学金で、一浪ののち、京都大学法学部に進む。そして、当時は大変高名だった保守派の政治学者・高坂正堯の弟子になった。

このころ前原は、外交官か学者になりたかったという。しかし「学者になれるほど頭が良くないし、外交官なら東大でないと不利だ」ということで、高坂から紹介されたのが、山田宏だった。山田も高坂の弟子で、そのとき、すでに東京都議となっていた。

前原は順調にいけば、松下政経塾では第7期生のはずだった。しかし、単位を落とし留年して、1年遅れになったのだから、学者や外交官になるようなタイプではなかったのだろう。

いずれにせよ、前原が入塾したのは、山田が都議会議員に当選し、松下政経塾に一定の成果が出始めたころだ。「未来の外務大臣」を夢見た、珍しく保守的な政治思想を持つ京都大学生が、地盤・看板・カバンなしで政治家になろうとしたとき、政経塾というのはそれほど突飛な選択ではなかった。だからこそ、高坂先生も勧めたのだろう。

そして、入塾から4年という、ほとんど最短距離で、前原は統一地方選挙に出馬し、京都府会議員に当選する。教育大学附属高校から京都大学法学部というサラブレッドでイケメンの青年が、1人で街頭演説を毎日やっていれば、健気な青年として好感が広がったのは当然である。左京区は人口が多く定数4だったから、毛色が変わった候補者が滑り込む余地も大きかった。長く住んだ山科区でなく、左京区を選んだのはよい見通しだった。

前原がなぜ、自民党会派に入らなかったのか、あるいは、入れなかったのか、はわからない。しかし、左京区の選挙区事情からすれば、現職の自民党府議にとっては、もう1人、自民党の議員が増えるのは歓迎しなかったのは当然だ。

そして、このころの京都1区(中選挙区)は定数5で自民2、民社、公明、社会が1議席ずつだった。ただし、共産党は、その前の総選挙で2人立てて共倒れだったから、1人にすれば確実に当選しそうだった。しかも、自民党の2人は伊吹文明(のちに財務相)と奥田幹生(のちに文部相)という大物だったから、これでは、自民党から新人が立候補するのは当分無理である。だが、思いもかけないチャンスが訪れる。日本新党が結成され、山田や長浜といった政経塾の先輩たちの勧めで京都府外でだが参議院選挙の運動を手伝った。

しかも、次の総選挙では、民社党委員長であった永末英一が引退することになった。永末は、東京帝国大学法学部の卒業で、民社党支持層だけでなく、保守・中道に個人的な人気があった。よって経済界などには、この議席を非自民の中道候補に埋めてもらうことを望む空気があった。

さすがに、前原は府議会議員選挙の借金も返せてない時期だったから、当然に躊躇はあっただろう。しかし、細川護煕が熊本出身の立石一真(オムロンの創始者)に頼んで塚本幸一、さらには、稲盛和夫からそれなりの支援を引き出すことにも成功した。

そして、清水の舞台から飛び降りた気分で立候補したら、風だけで当選してしまったのだ。しかし、しょせんは風だけである。小選挙区になった1996年の選挙では、前原は、新党さきがけを経て、民主党に属していたが、京都2区で当選した自民党の奥田幹生はおろか、共産党の穀田恵二にも引き離され、惨敗だった。

だが、このとき、民主党では小選挙区と比例区の重複立候補を認めており、前原は復活当選を果たす。このとき、新進党では重複立候補を認めなかったので、野田佳彦や山田宏は議席を失っているのだから運が良かった。

1994年に日本新党が解党して、新進党に合流したとき、前原は新党さきがけを選んだ。そして、前原がさらに幸運だったのは、次の2000年の総選挙のときだ。奥田幹生が引退して、後継者はやや地味な府会議員だった。しかも、この小選挙区は、共産党に勝機があるほど強力な選挙区だったから、当選した。

前原は「新保守主義者」だと一般に見られているし、中国やロシアとはあまり関係が良くない。しかし、一方で、さまざまな機会に、「保守」の側から「変節」をなじられることも多い。ただ、前原を野田佳彦や山田宏と同じような意味で「保守」というのが、そもそもの間違いなのであろう。むしろ、前原は松下幸之助でなく、高坂正堯の弟子であると理解した方がいいと筆者は思っている。

その弟子である前原が、政策を考える上で揺るぎないのは、日米安保の堅持を絶対的なものとしながらも、日本も集団的自衛権の行使を認めるなど、積極的な責任分担をすべきだというものである。

一方で、前原のもともとの考え方は、「韓国や北朝鮮については、積極的に友好を進めることが、ソ連の脅威から日本を守るために必要」というものだった。大事な後援者である西陣の織物業者が北朝鮮へ工場進出するのを斡旋したことや、この業者と平壌へ同行して、よど号乗っ取り犯人などと接触したことが批判されている。しかし、小泉訪朝以前は、北朝鮮とパイプを持つことがネガティブにとらえられることもなかったのだから、別に特異な行動ではない。

ただ、外交・防衛以外の分野の問題について、前原の考え方はもうひとつよく分からない。最初に代表選挙に出馬したときは、自分が奨学金をもらって大学へ行ったとか、身の上話を引き合いに出して(それがやや脚色されたものとして週刊誌で批判されることになったが)、セーフティーネットの重要性を珍しく語っていたが、これは戦術的にそのあたりを強調しただけで、全般的には、新保守主義的だと考えられている。

前原に人気があるのは、その思想とか政策が共感を持って迎えられているというより、思い切りが良くけれんみがなく、しかも正々堂々とした物言いである。ただ、それは、前原の危うさでもある。ここでこんなことをいったり、やったりして大丈夫かというとき、「まあ、いいか」という気分になるのだろうか。

かつて松村謙三が中曽根康弘を評した「緋縅の鎧を着けた若武者」という言葉がぴったりのかっこうよさが前原にはある。それは、石原慎太郎と違って、傲慢さ感じさせるものではない。ただ、十分に推敲したり、計算され尽くされたものでもないので、ひどい破綻を来すことも多い。

「北方領土をロシアが不正占拠している」といったり、「中国を軍事的な脅威であると見なす声が増えています」とアメリカでいったり、厳しい言葉を使えば、国内世論は喜ぶが、相手は激しく反発する、ということだ。

八ッ場ダム問題について、建設中止を断定的に言い切って事態を収容がつかないものにした。地元自治体の意見を聞かずに大臣が方針を決めれば、知事たちも引っ込みがつかなくなるのはわかりきったことだ。尖閣諸島の中国漁船拿捕事件の経緯は、あえて、事を荒立てたのでないかという見方もあるし、駐ロシア大使更迭事件の引き金になったメドベージェフ大統領の訪問も前原の言動が引き金ともいわれる。

発言だけでなく、物事の処理にも危うさがある。外国人献金問題についていえば、府会議員に献金してくれる人などそう多くはない。焼き肉店の女主人なら国籍がないのが普通である。少なくとも、その可能性が高いと疑ってかかるべきで付き合いには慎重であるべきだった。もし、知らなかったというなら、あえて、面倒なことは確かめないことに決めてパスしておいただけだろう。

前原の関心の中心は外交らしいし、その見識が高いのも認めたい。しかし、彼は外交で責任のあるポストに向かないのではないかと思う。外交に携わる者にとって要求される資質はどんなものか。イギリスのハロルド・ニコルソンは、誠実、正確、平静、忍耐、謙虚、忠誠、良い機嫌とだといっている。

また、フランスのフランソワ・ド・カリエールは、

①注意深く勤勉な精神

②物事をあるがままに把握し、目標に対して無理のない方法でアプローチする判断力

③人の心を読み取り、相手の表情の小さな変化も利用できる洞察力

④交渉の過程で利害対立の障害を取り除く機略縦横の才

⑤思いがけない出来事にみまわれてもうまく受け答えができ、危機に陥っても分別ある対応で切り抜けられる沈着冷静さ

⑥相手の言うことにじっくりと耳を傾ける落ち着き

⑦何を言うべきかをよく熟慮せずにしゃべったり、相手の提案をよく考えもせずに返答しようとするなど、見栄を張らない自制心

⑧予想外のことが起きたときに動揺して表情が変わったり、話し方が乱れて手の内を知られるなどしない度胸

の8つを心得として上げている。

こうした格言を、前原は高坂から十分に教えられただろうし、それを、もう一度反芻すべきである。前原は外交の分野で大きな仕事をしたいのだろうが、古今東西、名外務大臣といわれる人に、派手な目立ちたがり屋などいない。

ドイツのゲンシャー、フランスのクーブドミュルビル、アメリカのシュルツ、ソ連のグロムイコなどみんなそうだし、戦後日本では椎名悦三郎あたりの評価が高いが、地味で目立たない存在だ。

逆に言えば、日本の政治家にあってまことに貴重な、前原の格好よさや、明快で力強い物言い、相手に媚びず信念を語る態度は、外交ではないほかのところでその力を発揮すべきものだ。政治家は高い説得能力をみんなが嫌がることを納得してもらうのに使ってこそ値打ちがある。

そうでなければ、単なる扇動家だ。もし、消費税引き上げとか、年金の改革とか、国民に理解を求めねばならない難しい問題などにつき、十分に計算し尽くした上で、その才能を使うようになれば、相当に大きな仕事ができる政治家になることが可能なはずだ。それを期待したい。

松下政経塾が日本をダメにした
八幡 和郎
幻冬舎
2012-02-24
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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