日本にはアメリカの「核の傘」が不可欠だ

池田 信夫

ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のベアトリス・フィン事務局長は、来日前から「安倍首相に面会を拒否された」と騒ぎ、来てからも「日本政府は国際社会の仲間外れになる」などと説教して反発を買った。しかしICANの進めている核兵器禁止条約には、核保有国もその同盟国も参加していない。それは現状が合理的だからである。

核武装が囚人のジレンマになることは、よく知られている(利益は対称とし、数字は自国の利益)。他国が核武装するときは、自国だけ核武装しない(-2)より自国も核武装(-1)するほうが安全だ。他国が核武装しないなら、自国だけ核武装するほうが安全なので、どっちにしても核武装することが合理的(ナッシュ均衡)なのだ。

これは銃規制のジレンマと同じで、アメリカのように銃が広く行き渡った社会では、互いに銃をもつことが合理的になる。そうでなければ日本のように徹底的に銃を禁止し、誰も銃をもたない右下のような状態を守るしかない。

ICANのめざしているのは右下の全員が非武装の状態で、これが理想であることには誰も異論はない。原爆が開発される前だったら、核兵器禁止条約は有効だった。アメリカ政府も終戦直後には、原爆を国際共同管理する案を検討したが、ソ連が核実験に成功して不可能になった。

他国が核兵器をもつとき、自国だけがもたないことは国民を危険にさらす。すべての国が同時に核兵器をゼロにできない限り、核兵器禁止条約で核兵器を禁止すると、条約を守らない北朝鮮のような無法者だけが核兵器をもつ最悪の状態になる。

核武装による均衡は危険だが、均衡が崩れることはもっと危険である。ナッシュ均衡の定義は「自分だけ均衡から抜けても利益を得られない」ということだが、核保有国にはこの「恐怖の均衡」から自分だけ抜ける利益がない。それを脱却するには、主権国家を超える強力な「世界政府」が必要だ。

核保有国の既得権を守ったまま、非核保有国(特に日本とドイツ)への「拡散」を禁じたのが核拡散防止条約(NPT)だった。日本はNPTに署名してから1976年に国会で承認するまで、6年かかった。それは日本が核武装を放棄してアメリカの核の傘に入ることが、軍事的な従属を意味するからだ。そのとき日本は「準核保有国」になると同時に、日米同盟なしに自国の安全を守れない半主権国家の道を選んだのだ。

今年7月、プルトニウムの平和利用を義務づける日米原子力協定が「自動延長」される見通しだが、これは半主権国家としての日本の位置づけを再確認するものとなろう。1988年にこの協定が締結されるときも「日米10年戦争」といわれる激しい交渉があったが、今はそれを記憶している人も少ない。日本はよくも悪くも、アメリカの一部になったからである。