超ヒマ社会。働き方と遊び方に革命を起こそう。
汎用AIが登場すれば、人口の1割しか働かなくて済む。今の仕事の9割をAIやロボットが受け持ってくれる。それによってむしろ生産は高まる。その果実を分配し、ベーシックインカムで暮らす。そんな未来がほの見えます。
ただ、人口の1割だけが働いて、9割が遊んでいる、という姿は想定しづらい。ほとんどの人がちょっとだけ、ちょっとずつ働いている、ってことになるんじゃないですかね。それも、働いているんだか遊んでるんだか判然としない、そして結構忙しくしている、って感じじゃないですかね。
産業革命から近代、現代に至り、機械化が進み、自動化が進み、便利になり、効率的になりました。移動もコミュニケーションも自在となりました。野良仕事や単純手作業からはかなり解放されました。それでヒマになりました。で、ぼくたちはボヤ~っとしている、ってことはなく、逆に、とってもあくせくしています。忙しいです。仕事も遊びも暮らしもスピードアップしております。
AIが仕事を奪ってくれて、ぼくらは彼らに仕事を委ねてやり、だからといってボヤ~っとすることは多分なくて、代わりの仕事がわらわらと生まれてくるし、空いた時間にすべきことがエンタメにしろ創作にしろ恋愛にしろ、ぎっしり現れてくるし、まぁ忙しいはずです。
東京大学先端科学技術研究センターの檜山敦講師は、複数人で1人分の仕事を行う「モザイク型就労」を提案し、時間を組み合わせるタイムシェアリング就労、遠隔操作ロボットやVRによる遠隔就労、複数人のスキルを組み合わせるバーチャル人材合成の3種類を唱えています。同感です。
汎用AIを待たずとも、これはシェアリングエコノミーの文脈で実施すべきことです。シェアエコはデジタル化・スマート化の帰結。経済規模は2013年には世界$150億だったものが2025年には$3300億に成長すると見込まれています。
そして、家(Airbnb)やクルマ(Uber)のような大きなモノを共有する事業から始まり、自転車や服のような小さなモノもシェアされるようになりました。でも、時間やスキルといった誰でも持っているものを共有するほうが無限の可能性があり、ビジネスとしても大きくなるでしょう。
ぼくも参加した政府「シェアリングエコノミー会議」の成果として、昨年、シェアリングエコノミー協会が自主規制ルールを作り、適合するシェアエコサービスの認証制度を始めました。その第一次認証の顔ぶれの多くは子育てや家事など人の時間やスキルをシェアするモデル。そう、これが本命です。
個人ができること・やりたいことのスキルリストと時間割を作って、モジュールとして提供する。それをシェアリングサービスで共有する。それらモジュールをモザイク状に組み合わせて仕事を設計する。これです。
デジタル化・スマート化の帰結はそれだけではありません。
都心回帰が進むと同時に、移動社会になります。速水健朗「東京どこに住む?」は、圏外から都心部への集中が進み、移動すること、場所を変えることが大事な能力になっていることを説きます。リチャード・フロリダ「クリエイティブ都市論」も社会的な階層の移動と地理的流動性は密接に関わり、移動する能力の有無によって人生の可能性が大きく左右されることを示唆します。
これはITが人と人の間の直接的コンタクトの需要を生み、スマホの普及で近い距離の価値が高まった効果でもあります。「遠さ」を克服する通信が「近さ」を際立たせる。身近なコミュニティとコミュニケーションがネットで重みを持ち、リアルな場に固まって過ごしつつ、それら場の間を移動し続ける。
政策論としては、通信政策(5Gなどデジタル基盤の整備)、都市政策(地方再生・分散の逆の、都市集中政策)、社会保障政策(ベーシックインカム)、教育政策(リカレント教育を支える規制緩和と教育情報化)といった項目が浮かびます。
もっと重要なのは労働政策。モジュール的に働く第一歩は、兼業を認めること。いや兼業を推奨することが求められます。二足のわらじをはく、副業を認めることは産業界にも兆しが見えています。今後は3足、4足のわらじがデフォになるでしょう。
ぼくは以前、官僚というブラックな職業で、残業200時間休みなしなんて日々を送っておりましたが、脱出してからは何が本業なのか不明確な、たくさんのわらじ暮らしです。大学の教員、企業の役員、社団やコンソーシアムなど公共団体の代表、政府の委員など、職業としても4種あって、モジュール的です。
しかも仕事と称し、ライブにでかけたり、飲み会を催したり、はたから見れば遊んでるわけで。この文章を綴ってるこの時間にしたって、仕事っぽい中味を書いてるっぽいけれど、原稿料を稼ぐわけでもなく、はたから見れば遊んでるわけで。
まぁそんなかんじになっていくのかな、と。ぼくは役所を出て20年、もうすっかりこんなかんじに慣れてしまって、戻れないのですけれど、みんなも慣れれば、そんなかんじかな、と。
1月7日付け日経新聞 文化欄に鷲田清一先生の「いくつもの時間」という素敵な随筆がありました。人はいろんな時間を多層的に生きるポリクロニックな存在。日々の暮らしにもう一つの時間が大切で、時間に「あそび」の幅をもたせたい、と。
人の内にはさまざまに異なる時間が流れていて、ゆたかに生きるというのは、それぞれの時間に悲鳴をあげさせないこと。時間はいくつも持ったほうがよくて、交替ででもいいが、できれば同時並行がいい。超ヒマ社会での心得は、そういうことでしょう。
鷲田先生、ぼくの中学高校大学の先輩、今度そのあたりの心得、指南を受けに伺いたく存じます。
[参考]
「総選挙後の課題、シニアの労働参加はAIがカギ」
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2018年1月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。