9条解釈「通説」と、目的と手段の倒錯

篠田 英朗

平昌オリンピックが閉幕した。パフォーマンスのみならず、自らの可能性を極め、お互いを尊重しあうアスリートたちの姿は美しく、胸を打った。

それに比べて醜悪なのは、オリンピックをめぐって駆け引きを展開させる政治だ。開会式での北朝鮮の「ほほえみ外交」は浅薄で、閉会式ではあからさまな非難の応酬になった。

しかしこれも人間の世界だ。政治の場にも美辞麗句はある。だが、その裏では、利益計算にもとづいた行動が進められる。

まだ、3月のパラリンピックがあるが、その後は、何が起こるかわからない。アメリカによる制裁措置も、パラリンピック後の時期を一つの山として、時間的な計算がなされているように見える。

それにしても疑問なのは、日本国内の議論の動向だ。相変わらず「圧力か対話か」の意味不明な二項対立にとらわれて、アメリカや北朝鮮の高官の発言の細部に一喜一憂している。それどころか、北朝鮮高官がオリンピックに来たと言っては、外交安全保障上の大きな事件が起こったかのように取り扱う。

そもそも圧力も対話も、共通の目標があれば、矛盾しない。それら二つは、単なる「手段」でしかない。とすれば、対話のための対話をしないのが正しく、圧力のための圧力もかけないのが正しい。重要なのは、目標が達成できるかどうか、である。二つの手段で目的を達成することできなければ、さらに新しい手段が導入されることも十分にありうる。

南北対話によって、南北朝鮮の緊張緩和が進むのは、制裁の突破口にならない限り、実はアメリカにとっても悪いことではない。南北朝鮮の緊張緩和を阻害するために、アメリカを含めた各国は、制裁を課しているわけではない。緊張緩和によって、全面的な南北間の戦争が誘発される可能性が低下するのであれば、それはむしろアメリカによる限定的な武力行使のオプションにとっては誘因要素ですらある。限定攻撃の最大のリスクは、管理できない全面戦争への発展だからだ。圧力も対話も、目的と手段の戦略的関係の中で、戦略的に評価しなければならない。

それにしても目的を見失ったまま、「圧力か対話か」という手段の二者択一にとらわれる姿勢は、やはり憲法学通説的な憲法9条解釈に起因しているように思われる。絶対非武装中立といった憲法9条解釈は、まさに目的を見失って、特定の手段の絶対性だけを唱える立場だからだ。

日本国憲法が「希求」している目的は、「正義と秩序を基調とする国際平和」である。その目的を達成するために、第二次世界大戦時の行動を反省し、国際法規範にそって武力行使の一般的禁止を国内法規範に取り入れた(9条1項)。そして国際法規範に挑戦した大日本帝国軍を解体して戦争を目的にした「戦力」の不保持を誓い、「交戦権」なる時代錯誤的な古い国際法概念を振り回すこともしないとも誓った(9条2項)。

現代国際秩序の維持という目的のために、世界の各国は一致団結して、武力行使の一般的禁止に合意している(国連憲章2条4項)。しかし違法行為に対抗する手段まで禁止してしまっては、かえって国際秩序の維持という目的が脅かされる。そこで国際秩序の維持に必要な制度として、集団安全保障と自衛権の二つが、合法化されている(国連憲章7章・51条)。日本国憲法は、本来はこうした国際法規範の考え方にそって理解されるべきものだ。

実際のところ、日本国憲法を起草したアメリカ人たちは、そのように日本国憲法を理解してきた。しかし日本の憲法学会だけは、絶対にそれを認めない。そして、学校教育や資格試験などを通じて、目的と手段を逆さまにした教義を普及させる運動が続けられている。

国際法秩序を維持するための手段である「戦力不保持」や「交戦権否認」を理由にして、国際法秩序の維持に必要な制度である「自衛権」を否定しようとするのは、あまりに倒錯している。

目的は何なのか。目的は「正義と秩序を基調とする国際平和」だ。その目的に役立つ手段を日本国憲法は提唱しており、役立たない手段は提唱していない。

自国の憲法が丁寧に説明している「目的」すら見失い、「手段」を絶対化することでしか憲法を語れないような態度が、「通説」ということになっているので、日本人の多くは、現代世界で起こっている外交安全保障政策の目的と手段も取り違えてしまうのだろう。

憲法・外交安全保障分野において、日本人の多くがどうしても目的と手段を錯綜させてしまう悪い癖は、本当に根が深い。

ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)
篠田 英朗
筑摩書房
2017-07-05

編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年2月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。