言論統制で民放の既得権を守ろうとする読売新聞

池田 信夫

安倍政権の進めている通信・放送改革に、読売新聞が「番組の劣化と信頼失墜を招く」という社説で反撃している。政府の規制改革推進会議が「テレビ・ラジオ局の放送事業者とインターネット事業者の垣根をなくし、規制や制度を一本化する」ことに、読売は反対だという。その理由は

放送局は、放送法1条で「公共の福祉の健全な発達を図る」ことを求められている。民放はこうした役割を担い、無料で様々な番組を提供してきた。同様の規制がなく、市場原理で動くネット事業者を同列に扱うのは無理がある

というのだが、これがわからない。民放が無料なら、インターネットも無料だ。ネット事業者が「市場原理で動く」というなら、民放も市場原理で動いている。そうでなければ、彼らはどうやって株式会社を経営しているのか。

民放もアゴラもコンテンツを無料で提供して広告収入で経営を維持するというビジネスモデルは同じである。違うのは、民放が数千万世帯に届く地上波というインフラを放送免許で独占する代わりに、放送法の規制を受けることだけだ。その規制がなくなるのは民放にとって結構なことで、反対する理由はない。

読売が「規制が外れれば、放送とは無縁な、金儲けだけが目的の業者が参入し、暴力や性表現に訴える番組を粗製乱造しかねない」と書くのは被害妄想である。今でも衛星放送やCATVでは、ポルノや競馬の番組が放送されている。放送法の言論統制がなくなると、そういうマージナルな放送局が自由になるだけで、今から衰退産業の地上波テレビに巨額の投資をする企業はない。

「米国では、放送局に政治的な公平性を求めるフェアネス・ドクトリン規制が1987年に廃止された後、偏った報道が増えた」と読売がいうのは、因果関係が逆だ。フェアネス・ドクトリンについては、合衆国憲法に定める言論の自由を侵害するという訴訟がたびたび起こされ、1984年に連邦最高裁が違憲判決を出した。

このためFCC(連邦通信委員会)は1987年に、フェアネス・ドクトリンを廃止した。当時すでにCATVで数百チャンネルの番組が放送され、1日中キリスト教の説教を流す局や保守系のトーク・ラジオもあり、政治的公平の規制は空文化していたからだ。その後、EUでも放送のコンテンツ規制は撤廃され、今はOECD諸国にはほとんど残っていない。

かつて地上波局の放送免許は大きな利権で、読売新聞も朝日新聞も「波取り記者」を使って放送免許を取るロビー活動を続けた。しかしインターネット時代には、AbemaTVを見ればわかるように、新しい業者は(放送法の規制を受けない)ネット放送に参入する。もはや放送法で民放の既得権を守ることはできないのだ。

放送改革が「番組の劣化と信頼失墜を招く」とは笑止千万だ。今の民放が、これ以上劣化することはできない。民放のワイドショーが偏向していないと思う人もいないだろう。それでいいのだ。私は民放なんかまったく見ないが、困ったことはない。何が公平で何が偏向しているかは、多くのメディアの自由な競争の中で、視聴者が判断すればいいのである。