「古代日本は韓国に学んだ」は日韓併合時のお世辞

八幡 和郎

捏造だらけの韓国史 – レーザー照射、徴用工判決、慰安婦問題だけじゃない」(ワニブックス)という新著が1月28日に発売になる。これまで出してきた2冊のような完全な通史ではなく、朝鮮半島や日韓関係の歴史の重要な部分を題材にしつつ、現在の日韓関係ととるべき対策を解き明かしていこうというもので、徴用工判決だけでなくレーダー照射事件までしっかり書き込んである。

この本を書いていて、結局、完全には解き明かせず問題提起に留まった問題もいくつかある。そのひとつは、日本が韓国からいろいろ学んだとか、日本と韓国は兄弟国家のようなものだとかいう意識がいつから発生したかということだ。

そして、だんだん、そういう意識は、日韓併合を円滑に進めるためには、日本がへりくだってコリアン民族の自尊心を満足させた方がいいという配慮で始まったものでないかという気がしてきた。

外交関係については、江戸時代まで一貫して、朝鮮半島国家は古代から日本に従属関係にあるべきだという意識で組み建てられてきた。江戸時代の朝鮮通信使が対等の関係の証しだったなどという冗談は、近年になって在日朝鮮人の方が言い出した話で(自分が言い出したという人を知っている)、当時の意識としては朝貢使節だった。

この点は外交史としてもとても大事だ。なぜなら、明治初年に日本から朝鮮に出して近代的な外交関係を申し出たのは、上下がはっきりした関係だったを対等にしようというものだったのに、朝鮮が拒否したことが、近代の日韓関係の不幸なスタートの始まりだったことを意味するからだ。

そして、江戸時代以前に、日本人が韓国から文化を学んだとか、兄弟のような関係だとかいう意識があったと示すようなものはなかったのではないかと思う。

それでは、なぜ、そういう意識が生じたかといえば、日韓併合を円滑に進めるために、韓国人の自尊心をくすぐり、また、日本人が韓国人を軽んじることがないように考え出された新しい歴史観だったのではないだろうか。

「文藝春秋」での元駐日韓国大使の分析の誤り

柳興洙氏(日本記者クラブYouTubeより)

最近、屋山太郎さんが、「日韓はお互いにコンプレックスを抱いている 元駐日大使の発言に疑問」という記事をデイリー新潮にだされていた(2019年1月12日)。月刊『文藝春秋』2019年1月号で柳興洙(ユ・フンス)という朴槿恵大統領時代の駐日大使が「文在寅政治は我が韓国の『信用』を失った」と文政権への失望を語っているインタビューのなかでの発言をとらえたものだ。

このなかで、元大使は日韓は互いにコンプレックスを抱いているといっている。「日本に植民地にされた」韓国と、「古代は朝鮮の方が先進国だった」というわけだ。それに対して、屋山氏は日本より朝鮮の方が先進国だったわけがなく、暴論だといっている。

このテーマについては、ちょうど1年前にアゴラに「中国文明は韓国“素通り”で日本にやってきた」というテーマを書いている。その詳しい内容は、当時の記事を見て欲しいが、要点だけ繰り返しておこう。

魏志倭人伝には、邪馬台国への使いはソウルと平壌のあいだにあったとみられる帯方郡から沿岸を釜山付近まで船で行って日本に渡っている。その途中の未開地域(百済や新羅)など目もくれなかった。

そんななかで面白いのは、イネのDNA分析が進んで、日本の米は弥生時代から中国の華南・華中地方のものと同じ二つの系統のものであるのに対して、朝鮮半島ではそのうち一系統がわずかにみられるだけで、日本でもっとも受け入れられたもう一つの系統はまったくないということだ。

それに対して、朝鮮半島で栽培されていた米は、華北や遼東半島方面から入ってきたものだと言うことが明らかになってきた。つまり、日本の米は中国から朝鮮半島の沿岸を経由してやって来た可能性が高い。もしかしたら、栽培を試みたが、気候が寒冷なのでうまくいかなかったのではないか。半島の気候はだいたい北関東から東北地方と同じだから、米作りは遅れて発展したのである。

4〜5世紀、三国時代の朝鮮半島(Wikipedia)

また、4世紀に統一国家が成立した日本が半島にも進出したころには、百済とか新羅はまだ小国で、北の高句麗と、南の日本が小国が群立していた半島南部の支配権を求めて争ったのである(好太王は4世紀終わりから5世紀初頭の高句麗王)。

もちろん、平壌付近には楽浪郡があり、開城付近に帯方郡があって高い文明をもった中国人がいた。黒海沿岸のギリシャの植民都市みたいなものだ。そして、彼らは高句麗がこれらの郡を滅ぼした後も半島に多くが留まった。その彼らが、帰化人として日本に大陸文化をもたらした。王仁博士、止利仏師、秦氏らもすべて中国人だ。その中国人の来日に百済はおおいに貢献してくれたのは事実である。

そこで、百済にお世話になったのだから、韓国に感謝しろという議論がある。しかし、それは成り立たない。

①百済人は満州系の扶余人で言語も韓国と関係ない。そして、百済は唐(中国)と新羅(韓国の前身)に滅ぼされた日本の友好国で多くの遺民は日本人になった。

②百済から来た人で日本に文化や技術を伝えたのは漢民族ばかりだ。

③日本は百済には領土を割譲したり軍事援助を与えるなど見返りは払っているので恩恵を受けたわけでない。

ともかく、百済人の非常に大きな部分は日本に亡命し、そのDNAは日本人のそれのかなり大きな部分を占めているし、皇室などにも入っているので、百済の継承者が新羅・高麗・朝鮮であるとはいえない。

というわけで、百済が中国から日本への文化の伝播のなかで“総合商社”的な役割を果たしたのは事実だが、それを日本人が韓国人に感謝する材料になるのか理解出来ないのである。

現在の韓国につながる新羅はといえば、日本より先進的な要素などあったこともないのである。

というわけで、もともと、古代に朝鮮のほうが先進国だったこともないし、日本人が韓国から文化を学んだとか、兄弟のような関係だとかいう意識があったと示すようなものはなかったのではなかったのである。

日韓併合のために考え出された「古代は朝鮮の方が先進国だった」「日本は朝鮮から多くのものを学んだ恩義がある」とかいった間違った政治的歴史観をいまも持っている日本人がまだいたとしたら、そういう誤ったコンプレックスに決別することは、きっと、日韓関係の棘をぬいて、成熟した日韓関係の基礎となるであろう。

それからもうひとつ、韓国が古代、中世、近世において日本から学んだものが何か。これについての研究はほとんどされていない。たとえば、ハングルの発明に仮名が関係していないわけはない。工業技術で日本から韓国につたわったものもあるはずだ。ところが、どうも、誰も研究していないのではないか。お知恵を拝借できれば幸いだ。