「インターネット 自由を我等に」再考。

2019年02月18日 11:30

「サイゾー」から「インターネット 自由を我等に」に関連するインタビューが申し込まれました。
改めて、インターネットと自由を問うものです。
触発され、一文したためてみました。

ぼくが「インターネット 自由を我等に」という本を書いたのは1996年のことだった。
当時、旧秩序ががっちりしていた。政府、大企業、マスメディア、大学、どの分野も三角形のヒエラルキーがあった。
日本は米欧と3極をなす強さが残り、国境も頑然としていた。
これを突き動かすものとして現れたインターネットを等身大で捉えようとした。

それはまばゆい光に見えた。
個人が力を得る。表現や発信が自在になり、一億人の歩くテレビ局ができる。ビジネスも開花する。
全ての秩序をひっくり返す。パンクだ。
「私を」自由にしてほしい。

しかし破壊力が強すぎる。国との距離を測りかねた。だからネットを支援する意見がある一方、コントロールしたい意見も強かった。でもテクノロジーの必然に棹をさすのは無駄だ。
「ネットを」自由にしてほしい。

ぼくが書いた趣旨はその2点だった。

その後20年。見通せたこと、見通せなかったこと、両方ある。

事態は(だいたい)予想どおりに動いた。
99年にはiモードやブロードバンドが現れ、モバイル+映像で個人も組織もパワーアップした。2008年にiPhoneが登場、SNSも普及し、さらにパワーアップした。
MITネグロポンテが唱えた「ビットとアトムの結合」のうち、アトム(現実空間)のビット(バーチャル空間)への進出が完成した。

ビジネスはデジタル主導となった。
米の音楽売上は3/4がストリームとなり、時価総額上位5社はIT企業となった(Apple, Amazon、MS、アリババ、Google)。銀行もフィンテックになり、軍事もデジタルが主戦場だ。

個人はパワーアップし、マスメディアは相対化し、ヒエラルキーは崩れた。
連結した民衆にムバラク体制は倒され、トランプ氏はtwitterでマスメディアに対抗し、中国はネットを管理し、ISは海外の若者をネットで集める。

GAFAは並みの国家を超えるグローバルなパワーを手にした。
近代国家と企業との立ち位置が相対化した。
中国のファイアウォールは特殊事例ではなく、ネットの自由は制約を受けつつある。
EUはGAFAへの課税を模索し、GDPR(個人情報保護)やLinkTax(著作権)を持ち込む。
日本は海賊版を巡り、知財の保護と通信の秘密という両面の自由をどう確保するかで悩む。

このあたりまでは、だいたい見通せていた。
当時の識者はおぼろげながらもネットはこれくらいの破壊力を持つ波だと感じていた。

ぼくに見通せなかったのは2点ある。

まず、テクノロジーの進化が速度を高めること。

AIやIoTはぼくが98年にMITメディアラボに参加したときにはもう実装間近という雰囲気だったが、普及期に入るにはネットの普及からスマート化という段階を踏む必要があり、20年を要した。
ただ、本格普及が見えてからの、ネットからAI/IoTへの移行は速かった。

人類史を前後期に分けることになるシンギュラリティまでには間があるが、その前に、これほどの速度でビッグデータが最重要テーマとなり、データ主導社会が到来するとは。
土地や天然資源が農業社会や工業社会の原動力で、情報社会はそれが「知識」に移行すると考えられていた。
第4次産業革命やSociety5.0の時代、それが「データ」に移る。その資源の争奪戦となる。

ブロックチェーンはITが生んだ子どもだが、親を飲み込みかねない。
超分散を推し進め、商店も、銀行も、学校も、国家さえも、人々を仲立ちするサービス組織がみな力を失う可能性がある。98年ごろのネットに似た破壊力を感じる。
こんな技術の登場は想像していなかった。

もう一つは、ネットが資本主義に与える影響の大きさだ。

ネットは産業を活性化し、資本主義を強化する。
それは民主主義と並び近代が育ててきた両主義を成熟させると楽観視していた。
しかしネットは「資本主義」に退場を宣告する可能性がある。

それはネットが格差を拡大して、民主主義という平等圧力に反発するから、ではない。

ネットが財・サービスのコストを下げ、タダで使えるサービスが充実し、人々の利便を高め、生活を潤わせる。シェアリングエコノミーはさらにライフスタイルを豊かにする。生産・供給として金銭カウントされない経済活動が大きくなる。

GDPは伸びないどころか縮小する可能性がある。しかし利用者の効用=満足度は上昇する。
生産者余剰を換算するGDPでは経済を捉えられず、消費者余剰が大切な指標となる。経済成長がなくても幸せになれる。

資本主義は修正を迫られる。

それがどこに向かうのか未だ判然としないが、恐らく、資本主義が死ぬことはなく、デジタル情報が価値創造の源泉となる新タイプの資本主義が生まれるのではないかと考える。

話を元に戻す。

インターネットは我等を自由にしたのか。
「私」は随分と自由になった。だが私のデータは他者が吸い上げ、私自身はIoTで監視され、発信の自由が広がるほど、管理される度合いも高まる。どこかでほどよい塩梅に収まるのだろうか。

「ネット」はぐんぐん進化し、AIやブロックチェーンも乗っかって、自在性を増す一方、国家や地域は管理の度を強め、もう自由なパラダイスではない。
資本主義・民主主義が揺らぎ、自国第一の圧力も増す中で、ネットも無縁ではいられない。

インターネットは本格普及からまだ20年余りの黎明期にある。
成熟を迎えたとは言えない。
まして、それを使う人類はデジタル社会の入り口に立ったばかりで、作法も定まらない。

あと20年ほど経って、すっかり世代が入れ替われば収まりが見えてくる、ぐらいではないか。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2019年2月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。

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