青木理氏の「ヘイトスピーチ」論評は妥当か?

高山 貴男

「意思」だけではなく「能力」の議論も

ニュージーランドで白人至上主義者による銃乱射事件が起きた。

イスラム系移民を標的にしたもので50人あまりが死亡した凄惨な事件である。

Wikipediaより:編集部

「白人至上主義」「銃乱射」「イスラム系移民」の言葉は我々日本人にとってなじみのあるものではない。特に「銃乱射」など白人社会ではしょっちゅう起きている印象すらある。

凄惨な事件であったため日本でも早速、話題になり各種メディアで取り上げられ、そんな中、TBSのニュース番組であるサンデーモーニングでこの事件が取り上げられ同番組のコメンテーターの一人である青木理氏は下記のとおり論評した。

日本でも在日コリアンに対するヘイトスピーチがあり、相模原での障害者刺殺事件もある意味同じ構造だと指摘。私たちの足元にもそういう“芽”があると。

これは日本共産党員(参議院選挙立候補予定者)が青木氏の論評を簡潔にまとめたものだが内容は変わらない。そしてこの日本共産党員は青木氏の論評を受けて「差別や排外主義を許さない」とtweetしている。

青木氏は「ヘイトスピーチ」を根拠に日本にもニュージーランドの事件と同じ「芽」があると指摘する。

この青木氏の意見は一見「もっともらしい」し支持する者も多いだろう。しかしもう少し冷静になってみるべきではないか。

ヘイトな意思や思想を持ったからと言って必ずしも大量殺人に発展するとは限らない。

グロテスクな視点だが大量殺人を実現するのはそれ相応の能力が必要である。

ニュージーランドの事件も自動小銃が使われたし相模原の事件も犯人は攻撃対象の施設に過去に勤務し施設内部の構造を知り尽くしていたし、また攻撃対象たる知的障がい者は危機回避能力が健常者とは異なる。

ヘイトな意思や思想に満ち溢れた人間であっても貧弱では大量殺人の実現は極めて困難なはずである。

大量殺人は絶対に避けなくてはならないものだから意思だけではなくその能力も検証されるべきである。

そして大量殺人の意思や思想は議論が白熱しやすいが案外、具体的な対策は出て来ないのではないか。

ニュージーランドの事件で「白人至上主義」が話題になったが我々日本人はこの「白人至上主義」をどこまで理解しているのか。また、相模原の殺傷事件の犯人は知的障がい者の無意味性を説いたがこれは理解可能なものなのか。

現実に大量殺人の犯人の意思や思想はどこまで読み解くことが出来るのか。

いわゆる「専門家」に読み解くことが出来たとしても一般市民はそれを理解できるのか。

個人の意思や思想は究極的には内心の問題でありその検証には限界があるし、仮に検証が出来たとしても内心の問題である限り、啓発以上のことは出来ない。

意思や思想と言った根本的なものを論じていると何か高尚な議論をしているような感覚になるが、ともすれば「言葉遊び」に陥る可能性があるし根本的なものだからこそ安易な変革は出来ないという視点も忘れてはならない。

だから個人の意思や思想の検証は必ずしもは実際的な対策に結びつくわけではない。

一方で能力に焦点を絞った方が議論もしやすくより実際的な対策が採れる。

前記したように大量殺人にはそれ相応の能力が求められる。だから銃器を始めとした武器規制は当然だし福祉施設の安全も施設の構造や防犯装置、警備員数、警察の巡回経路、頻度などを議論した方が効果的である。

命に係わることなのだから実際的な対策に結びつく議論を優先すべきである。

しかしこうして見るとニュージーランドの事件と相模原の殺傷事件、そして日本の在日コリアンへのヘイトスピーチ問題は共通点より相違点の方が多いくらいで、この三つを一緒くたに扱う青木氏の意見は粗雑と言わざるを得ない。

「芽の議論」は危険である

青木氏の意見で注目したいのは「芽」という表現を使ったことである。

当たり前だが「芽」の段階ならば誰も傷つけない。誰も傷つけない「芽」など問題ない。

問題のない「芽」をさも問題があるかの如く論ずる姿勢は何なのだろうか。

おそらく青木氏は「このまま放置すれば大変なことになる」と言いたいのだろう。

はっきり言って「芽の議論」は危険である。「放置すれば危険である」とか「毒花として開花する恐れがある」という意見は穏やかではない。最悪「芽を摘む」という意見も出て来てしまう。

「芽の議論」は歴史的に見ても秘密警察が好む議論である。何もしていない人間を「危険人物」扱いして拘束できるからである。

青木氏はかつて「日本の公安警察」という著書を執筆・出版したはずだが秘密警察の思考を忘れてしまったのだろうか。

そして秘密警察が好む「芽の議論」に無邪気に反応し「差別や排外主義を許さない」と意気込む日本共産党員とは何なのだろうか。

日本共産党が「天下の悪法」と忌み嫌う治安維持法は特高警察によって「党の貯水池」とか「温床」という理屈で拡大解釈され日本共産党のみならず自由主義者までも弾圧した。

これは特高警察が「芽の議論」を極限まで発展させた結果である。

だから本来、日本共産党員なら青木氏を批判しなくてはならないのだがどうしたのだろうか。

それとも戦前の日本共産党は「芽の議論」が本格化する前に壊滅してしまったから無関係とでも言うのだろうか。

「反安倍」への警戒が必要である

今回の筆者の記事は「揚げ足取り」と感じる読者も多いだろう。確かに青木氏の論評は短く単に「視聴者受け」を狙っただけかもしれない。

そうだとしても「芽の議論」は注視すべきものだし何よりも「芽の議論」を論じたのがかつて公安警察を取材・分析した本を執筆・出版したジャーナリストであり、そしてこの「芽の議論」に最も反発できる資格を有する日本共産党員が好意的反応を示している事実は興味深い。「漫画」と感じる人もいるのではないか。

この両者は間違いなく「反安倍」である。しかしこれでは安倍政権の打倒は難しい。もちろん生産的な議論も期待できない。

むしろ「反安倍」が政権与党になった場合、どんな社会がやってくるのだろうかと不安が増すばかりである。彼(女)らは「ヘイトスピーチ対策」の名目で個人の内心に介入する可能性がある。

この日本で「自由」を守りたければ「反安倍」への警戒は必要なことである。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員