知られざる日台の絆:高雄は残った「台湾の日本人慰霊塔」

2019年03月24日 06:00

ポツダム宣言受諾に伴う日本陸海軍350万の武装解除、そして海外からのこれら軍人・軍属や民間人3百万の復員・引揚げはさぞかし想像を絶する難事だったに違いない。台湾にも当時50万近い日本人がおりその約7割が一般の住民だった。

高雄覆鼎金公墓の日本人慰霊塔(Wikipediaより:編集部)

日本統治期を生きたこれら日本人の故郷は台湾だった。が、残留の希望は叶わず富める者もそうでない者も一律千円と荷物二つとで1946年春までに台湾を後にした。その地に骨を埋めた彼らの父祖の遺骨を持ち帰る余裕などなかっただろうことは容易に想像が付く。

日本人慰霊塔というものが台湾にある。かつては台北と台中と高雄にあった。正式名称は日本人遺骨安置所という。敗戦で台湾を去った日本人の残した遺骨約2万柱が安置されている。台北のそれには北部地区、台中には中部地区、高雄には南部地区とそれぞれの頭に付く。

かつてと書くのは北部地区の安置所は既になく、高雄のそれも2013年頃には撤去の瀬戸際にあったからだ。高雄市の覆鼎金という閑静な一角にある公墓を公園化する計画があった。が、高雄の慰霊塔は公園の中に残ることになった。台中の慰霊塔には台北から移された遺骨も安置されている。

台北中和禅寺にあった慰霊塔 「日本と台湾・交流秘話」より

これから書くのは、これらの遺骨がどのように収集されたか、慰霊塔はどういう経緯で建てられたか、台北はなぜなくなり高雄はなぜ残ったか、などについての知られざるエピソードだ。そしてそこには多くの奇特な台湾人が関わったこともお伝えしたい。

1947年のある日、野沢六和は苗栗県太湖の畑を耕していて白木の箱を幾つか掘り出した。中には500柱ほどの遺骨が入っており箱書きから日本人のものと判った。畑地は日本軍の病院跡地だったので引揚げの混乱の中で残されたと思われた。

六和は張という姓の広東系だが日本人の野沢ムメを娶って日本国籍となり野沢を名乗った。夫妻は残された日本人遺骨を不憫がり台湾各地の遺骨収集を思い立った。そし二人で行商などをしながら台湾中の日本人墓地などを訪ね歩き、数年後にはトラック数何台分の遺骨を集めた。

六和はその経過を台湾日本人会報「さんご」に「遺骨拾いある記」と題して寄稿した。それによれば遺骨は台湾全土に土まんじゅうとして残された墓地跡に散乱したものや、高雄港から南方へ向かう途中バシー海峡で沈められ、南部の海岸に流れついた日本兵のものなど様々だったようだ。

遺骨の収集や管理には六和らの外にも大勢の台湾人が関わった。夫妻が集めた遺骨を一時納めた昭忠塔を立てた太湖の材木商で県会議員でもあった徐金福、中部地区安置所のある、巨大な金色の布袋で知られる宝覚禅寺の林錦東らの日本で学んだ仏教僧などだ。

50万近い日本人が去った後の台湾には、共産党軍との内戦に敗れた蒋介石率いる国民党軍とそれに従う各地の中国人(外省人)約100万がやって来た。台北故宮博物院の68万点の展示物もこの時に船で南京から長江を下り基隆港に運び込まれた。

50万が去り100万が来た訳だから差引50万の人口増、取り敢えず雨露を凌ぐ家が要る。日本人の残した墓地跡も格好の場所になったらしい。歴代19名の総督の中で唯一台湾に骨を埋めた第7代明石元二郎の台北林森北路の墓でさえ、最近までその上に民家が建っていたほどだ。

日本政府はサンフランシスコ条約発効後の1952年から漸く遺骨収集を始め、台湾でも六和らに5~6年遅れて収集事業に乗り出した。結果、60年頃には六和らの分も含めて2万柱余りの遺骨が集まり、61年に当時の日本大使館は慰霊塔を建立して遺骨を安置することとした。

収集地別に慰霊塔を建てるべく、台北は中和禅寺、台中は宝覚禅寺とし、高雄は覆鼎金公墓の台湾運輸社長杉本音吉の墓を譲り受けた。かくて中和禅寺には台北、新竹、宜蘭などの3千柱、宝覚禅寺には台中、嘉義、彰化、南投などの1万4千柱、高雄覆鼎金公墓には台南、高雄、屏東、台東、膨湖などの3千柱が各々安置された。

台中宝覚禅寺の慰霊塔(Wikipediaより:編集部)

が、台北の慰霊塔は98年に閉じられた。道路の拡幅工事を理由に遺骨は一旦宝覚禅寺に改葬された。そして結局、慰霊塔そのものも廃されてしまった。何がしかの理由があってのことだろう。が、残念ながら筆者には情報がない。

日本は72年に中国を承認し、そして日台は断交した。両国の大使館も閉じられたが、翌年民間交流を建前に台湾には交流協会(現日本台湾交流協会)、日本には亜東関係協会(現台湾日本関係協会)が設立され、それぞれ実質的に在外公館の機能を果たしている。

日本人慰霊塔では毎年11月に日本からの僧侶、台湾関係者や台湾協会幹部、そして台湾の交流協会、日本人会、日本人学校生徒や地域の在留邦人らによって、台北(市内の会場)、台中宝覚禅寺、高雄覆鼎金公墓でそれぞれ慰霊の法要が営まれる。

大使館がなくなったので各慰霊塔の管理や例年の慰霊祭の執行は、形の上では大使館から台北・台中・高雄の日本人会に託された。が、ボランティアベースの日本人会にそこまでのパワーはない。よって実務上は交流協会が取り仕切っているといって良い。

高雄慰霊塔の慰霊祭 筆者撮影

偶さか筆者は2013年4月から翌年3月末まで高雄日本人会の会長を仰せつかった。会員各社のほぼ持ち回りなので見込まれてそうなった訳でない。しかも前年暮れに話を持ち掛けられた時まで日本人会のことも日本人学校のことも日本人慰霊塔のことも全く知らなかった。

これら慰霊塔に安置されている遺骨は、一部には靖国神社に祀られている250万柱の英霊と同じく先の戦争で国のために戦って亡くなった軍人らのそれも含まれるようだ。が、大半は縁あって生涯の一時期を台湾の地で過ごしそこの土になった市井の人々だ。

が、だからといって今日この地で暮らす日本人がこれらの御霊に尊崇の念を懐かなくて良いということにはならないし、ましてやほんの数年間暮らすだけの駐在員である日本人会役員が同胞先人の記念碑たる慰霊塔の撤去など安易に決めたりして良いはずがない。

聞けばこの慰霊塔と日本人学校の移転がここ数年の高雄日本人会の懸案だという。覆鼎金公墓は澄清湖(蒋介石と宋美齢の別荘だった広大な公園)や高雄ゴルフクラブ(台湾南部の名門コース)に隣接する一角なので公園にするのだと。

高雄GCを挟んで左側の土が剥き出た部分が工事中の旧覆鼎金公墓、右側が澄清湖 google map

聞いてしまった以上は辞退できない。で、年明けの会合にオブザーバーで出席した。するとほぼ撤去の方向だという。遺骨は近くの納骨堂を借りて移すのだと。「ちょっと待って」と思わず口をつく。任期は4月からだが直ぐ現地を見に行った。

さてこの立派な慰霊塔、どう残したものか。偶々会で講演した女性市議が日本留学経験者だった。彼女に頼み市の民政局や文化局に事情を聞きに行ったり、日本企業の窓口の経済発展局(経発局)の局長に陳情したり動いた(市議は国民党で市長は民進党だった。が、当初そんな知識もなし)。

高雄日本人慰霊塔 筆者撮影

市政府の言い分はこうだ。公墓は古くからの台湾人墓地で数千基の墓があるが全て撤去か移転する。だのに日本人の墓だけ残す訳にいかない。悪戯されかねない(八田與一像の首さえ捥がれた)。台湾人は年に一度清明節にしか墓参りしない。普段は鬼(幽霊)が出るといって墓地に近づかない。だから公園の中に墓は残せない。

なるほどもっともだ。郷に入っては郷に従え、習俗の違いは重い。が、こちらも台北の轍は踏めない。で、こう提案した。遺骨は納骨堂に改葬し慰霊塔だけを記念碑として残せないかと。文化遺産なら可能だが50年では無理だし私には決められないと市政府。誰なら決められる?と筆者。市長だ、と市政府。

そこで経発局長に陳菊市長に話を繫いでもらった。今や陳菊氏は蔡英文政権の秘書長で経発局長は経済部次長、全く運が良かった。結果、昨年9月、高雄覆鼎金公園に日本人慰霊塔が残留するとの報が届いた。11月の慰霊祭に飛んで行き遺骨改葬にも立ち会ったのはいうまでもない。

後で判ったことだが高雄の古いものを残そうと活動する現地若者グループの貢献もあった。まさしく日台友好の記念碑だ。朝鮮半島が不穏な昨今、日本にとって台湾の存在は実に貴重。諸氏におかれても台湾旅行の際にはぜひ日本人慰霊塔にお立ち寄りのうえ往時を偲んで下されたく。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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