ドイツの誕生を知らずに欧州は語れない(特別寄稿)

2019年07月07日 11:30

消えた国家の謎』(イースト新書)という本をが7月10日に発売になる。イースト新書からは、『消えた都道府県名の謎』『消えた市町村名の謎』『消えた藩名の謎』という本を刊行しており、派手に売れている訳でないがロングセラーになっているし、図書館などに広く入っているので見つけるとうれしい。

今回の本は、以下のようになっている。

第一章:二つの世界大戦で消えた国、生き残った国
第二章:第二次世界大戦後に消えた国、生まれた国

第三章:アフリカや島国の独立の狭間で消えた国家
第四章:国家の変遷で読み解く世界史(イギリス・スペイン)

第五章:国家の変遷で読み解く世界史(フランス・ドイツ・イタリア)
第六章:国家の変遷で読み解く世界史(ロシア・中東・中央アジア)

第七章:国家の変遷で読み解く世界史(インド・東アジア)
おわりに:本当は間違いだらけの日本語の国名表記

今日は、このうちドイツの歴史についての部分を抜粋して紹介したい。ドイツの成り立ちを知らずして欧州は語れないと思うからだ。

神聖ローマ帝国とドイツはどう違う

ドイツはフランス、イタリアと兄弟国家のようなもので、いずれも、カール大帝のフランク王国にルーツをもっている。ただ、ドイツ人はだいたいカロリング家が滅びてコンラート1世が即位したあたりからドイツ史を語り始める。

オットー1世(Wikipedia)

この王国の3代目がオットー1世で、この王がイタリア王にかわって皇帝位についた。神聖ローマ帝国(サクルム・ロマヌム・インペリウム)と呼ばれるようになったのは、12世紀からだが、普通にはオットー大帝の戴冠を神聖ローマ帝国の建国と呼ぶ(962年)。まずドイツ王(のちにはローマ王)として諸侯たちに選ばれ、教皇から皇帝として戴冠された。それと同時にイタリア王の称号も持った。

1356年の金印勅書で、マインツ、ケルン、トリーアの大司教とライン宮中伯(バイエルン公と交互)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王が選帝侯とされ、皇帝は世襲ではないはずだが、1438年にドイツ王となったアルブレヒト2世からのちは、ハプスブルク家がほぼ独占することになった。

皇帝が常駐する帝都はなかったが、ドイツ王の選挙はカール大帝の宮廷があったアーヘン(ケルンの西)と決まっており、戴冠式もここで行われた。

ただ、1152年のフリードリッヒ・バルバロッサ以来、フランクフルトで選出され、戴冠式は、1562年マキシミリアン2世からはフランクフルトに移った。

ドイツでは、1517年にマルティン・ルターが『95ケ条の論題』を発表し宗教改革が始まり、多くの諸侯がローマや皇帝の支配を嫌ってプロテスタントに改宗し、領主の信仰に領民は従うことになった。

30年戦争では、デンマークやスウェーデン、カトリックのはずのフランスが新教徒に組みする形で介入し、1648年にウェストファリア条約が結ばれ、スイスやオランダが正式に独立を認められ、領民も領主と異なる信仰を持つことが認められ、各領邦は、外交権をもった独立国となった。

神聖ローマ帝国は形式だけになり、世界は平等な主権国家からなるという近代国際法の秩序が完成した。スウェーデンとデンマークは帝国内で領地を与えられ、アルザス・ロレーヌ地方で領地を獲得したフランスは、両地方を帝国から離脱させた。

フランツ2世(Wikipedia)

神聖ローマ帝国が名目上も消えたのは、ナポレオンに押されてマリア・テレジアの孫であるフランツ2世が「神聖ローマ皇帝としての義務から解放される」ことを宣言し、オーストリア皇帝を名乗ったときだ。

ハプスブルク家は、スペインの本家とオーストリアの分家に分かれたが、皇帝は分家の方に引き継がれた。ところが、カール6世が男子がないので娘のマリア・テレジアに領地を嗣がせようとしたことからオーストリア継承戦争が始まった。

戦争は1748年まで続いたが、マリア・テレジアはハプスブルクのほとんどの領地を継承してオーストリア女大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王となった。夫であるロレーヌ(ロートリンゲン)公フランツは本来の本拠地であるロレーヌを放棄し、メディチ家が断絶したあとのトスカナ大公に転じ、さらに、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世となった。

ポーランド南部のシュレージエン(シュレジア)はプロイセンに与えられ、中部イタリアの一部はオーストリアからスペインへ、シチリアはサボイ公国(のちにサルディニアと交換)に与えられた。

ドイツ統一で消えた4王国、6大公国、5公国、7侯国、3自由都市

ナポレオン戦争の時には、ライン川左岸はフランスに併合され、バイエルンとビュルテンブルクは王国に昇格し、ライン連邦という枠組みもできた。また、それぞれ短期間だが、シスレニア共和国(ケルン周辺)・マインツ共和国・ ダンツィヒ自由市・べストファーレン王国・ フランクフルト大公国(首都アシャッフェンブルク)なども存在した(本には一覧表がある)。

ワーテルローの戦いのあとのウィーン体制(1815年)では、原則としてナポレオン戦争以前の国境に戻りましたが、神聖ローマ帝国は復活せず、ドイツ連邦という組織ができて、オーストリアは議長国になった。

ベルギーはオーストリアからオランダに移り、オランダ王のドイツ内の領地とラインラントやスウェーデン領の西ポメラニアはプロイセンがとった。スウェーデンはノルウェーをデンマークから譲られ、オーストリアは、ベネチア共和国とミラノを獲得した。

そして、オーストリアはボヘミアなどドイツ人以外の土地を含む大ドイツ主義を掲げ、プロイセンはドイツ民族の居住地に限定した小ドイツ主義に傾きましたが、国民主義の潮流から小ドイツ主義が主流になった。

ビスマルク(Wikipedia)

プロイセンではビスマルクが出て、普墺戦争でオーストリアを破り、デンマークからホルシュタイン・シュレツビッヒを取り上げ、普仏戦争を起こして勝利し、1871年1月18日ベルサイユ宮殿でドイツ帝国(正式国名はドイツ国)の成立を宣言した。

フランスからアルザス(エルザス)とロレーヌ(ロートリンゲン)を併合し皇帝直轄領に、プロイセン、バイエルン、ビュルテンベルク、ザクセンの4王国、6大公国、5公国、7侯国、3自由都市とあわせたのがその領域だった。

大事なのは、ナポレオンによって群小諸侯が整理され、それがドイツ統一を容易にしたことだ。日本で、幕府が有力諸侯を束ねるプロイセンのようになれなかったのは、群小大名や旗本領、寺社領などの整理すらできなかったためである。

本来のプロイセンは現在ロシア領

ドイツ帝国統一の中心になったプロイセンのホーエンツォレルン家は、シュツットガルト南方のツォレルン伯爵として11世紀に現れ、1191年にニュルンベルク城伯、1415年にはブランデンブルク選帝侯となった。1525年に一族でポーランド王の娘婿だったアルブレヒトがバルト海沿岸のケーニヒスブルク(現在はロシア領カリーニングラード)付近を領していたドイツ騎士団総長となり、やがて、ここにポーランド王を宗主とするプロイセン(現地語ではプロシャ)公国を建てた。

これを結婚によってブランデンブルクの本家が引き継ぎ、1618年にブランデンブルク=プロイセンが成立して、1660年にはポーランドの宗主権から独立した。そして、フリードリヒ1世が「プロイセンの王」を1701年に許された。18世紀後半のフリードリヒ2世(大王)は、シュレジエン地方やポーランドなどに領土を広げた。

ナポレオン戦争後のウィーン体制下では、ルール地方にまで領地を広げ、中欧帝国化したハプスブルク家に代わってドイツの盟主となった。

神聖ローマ帝国皇帝を退いたフランツ2世はオーストリア皇帝を名乗り、1867年にはオーストリアとハンガリーの「二重帝国」(デュアル・モナキー)、正式には「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトバーン王冠の諸邦」となった。

帝国は二分され、神聖ローマ帝国の領域内のボヘミア王国を引き継ぐチェコはオーストリア側、スロバキアはハンガリー側となった。こうして、ドイツ人とハンガリー人が組んでスラブ人を押さえ込もうとしたのだが、民族主義の波を押さえられなかった。

実質的には最後の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ(1848~1916)の皇太子となった甥のフランツ・フェルディナントはボヘミアの伯爵家令嬢のゾフィー・ホテクと貴賤結婚していたので、スラブ人に融和的で、二重帝国をボヘミアも含めた三重帝国とするスラブ人優遇策を提案していたが、これがかえって領土拡大をもくろむセルビアを警戒させてサラエボでの暗殺事件の原因となった。

参考:ドイツ第二帝国の構成国
王国 (Königreich) 首都
 プロイセン ベルリン
 バイエルン ミュンヘン
 ヴュルテンベルク シュトゥットガルト
 ザクセン ドレスデン
    大公国 (Großherzogtum)
 バーデン カールスルーエ
 メクレンブルク=シュベリーン シュベリーン
 ヘッセン ダルムシュタット
 オルデンブルク オルデンブルク
 ザクセン=バイマル=アイゼナハ バイマル
 メクレンブルク=シュトレーリッツ ノイシュトレーリッツ
     公国 (Herzogtum)
 ブラウンシュバイク ブラウンシュバイク
 ザクセン=マイニンゲン マイニンゲン
 アンハルト デッサウ
 ザクセン=コーブルク及びゴータ ゴータ
 ザクセン=アルテンブルク アルテンブルク
     侯国 (Fürstentum)
 リッペ デトモルト
 バルデック バート・アロルゼン
 シュバルツブルク=ルードルシュタット ルードルシュタット
 シュバルツブルク=ゾンダースハウゼン ゾンダースハウゼン
 ロイス=ゲーラ ゲーラ
 シャウムブルク=リッペ ビュッケブルク
 ロイス=グライツ グライツ
    自由都市 (Freie Stadt)
 ハンブルク —–
 リューベック —–
 ブレーメン —–
    帝国直轄州 (Reichsland)
 エルザス=ロートリンゲン シュトラースブルク
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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