元徴用工問題に分析を、池袋老人暴走事件遺族の方に署名を

写真AC(編集部)

日本政府が日韓請求権協定時の議事録を公開して、請求権協定の範囲内に元徴用工問題があるという認識があったことを主張した。これに対して韓国政府は即座に反応し、大法院判決はそれを考慮した上で否定したのだ、とコメントした。

(時事通信)協定議事録「審理過程で考慮」=最高裁判決を尊重-韓国政府

水掛け論というやつである。

今回のように、政治的立場をかけて水掛け論が発生しているような場合には、水掛け論を非難しても、事態は改善しない。なぜなら立場の奥底にある「利益」があって、お互いに立場を譲り合わない水掛け論をしているからだ。

現在の日韓関係では、「共通の利益」の土台が不透明になっている。ただし存在していないわけではない。米国という共通の同盟国を持ち、一定の共通の安全保障政策を持っているため、この安全保障政策の枠組みの維持が「共通の利益」として働き、ぎりぎりのところでの両国関係の破綻を防いでいる。

換言すれば、安全保障政策の破綻が予測されない範囲内では、両国関係は悪化し続けていくだろう。また、万が一の暴発で、安全保障政策の枠組みが壊れていく事態が発生するならば、それは新次元の深刻な状態ということになり、新しい対応が必要だ。

現状で必要なのは、この「共通の利益」の土台を維持しながら、事態を改善していく道筋があるかどうか、だ。その道筋は、お互いが「何故お前は自分が間違っていることに気づかないのだ」という言葉を発することを封印しつつ、「私は間違っていました」という言葉も発しない地点でのみ、可能となる。

日本政府は、元徴用工問題を国際法の観点から理解する立場である。韓国政府(含む大法院判決)は、歴史問題の観点から理解する立場である。どこまで言っても両者が調和することはないのは、火を見るより明らかだ。

まずは自分の立場と、相手の立場を知り、よく分析していくことが必要だ。そのうえで対応策を考えるべきだ。

私は韓国大法院の判決は、国際法を無視しているという点で、問題をはらんでいると考えている。

関連拙稿:日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと(現代ビジネス)

ただしそれを是正する手段はない。したがって「共通の利益」を求めている姿勢をみせるためには、日本政府は、韓国国会を通じた法的措置を訴えるなどの具体的な改善案を率先して提示してもいいのではないかと示唆したこともある。ただしそれも、法的な論点を双方の当事者が共有してからの話にはなるだろう

関連拙稿:さらに深刻化した「徴用工問題」で日本は何を目指せばいいか(現代ビジネス)

どちらかがより激しく相手を糾弾したり、どちらかがより深く自分を反省したりしても、事態は改善しない。

まして事態を改善できないのは、誰かが日本で韓国を「敵」扱いする「ネトウヨやヘイトスピーチ派」のせいなので、自分はネトウヨではないと思う人は冷静な知識人とともに「署名」をしてほしい、といった人気投票の運動で、何か事態が改善するようになるとは、思えない。問題が発生しているのは世の中にネトウヨがいるからだ、といった安易な診断に対する「署名」活動を呼びかけることが、大学教員に与えられている社会的使命なのだろうか。

至る所に同じような構図の問題があり、日本社会全体に閉塞感があふれている。憲法問題は代表例だ。憲法解釈の問題は、認識のレベルの問題だ。徹底的に議論しなければならない。ところが「多数派だ」「通説だ」「憲法学者以外の者が憲法を語るのはフェィクだ」といった人気投票に持ち込むことを、大学教員が率先して呼びかけている。納得がいかない。

関連拙稿:まず憲法学者を議論に引きずり出すべきではないのか(アゴラ)

私は、むしろ池袋老人暴走事件の遺族の方が訴えている「署名」に参加し、署名用紙を送付した。

暴走老人に対する歯止めを怠っているのは、政策論だ。高齢老人に対する適正な処罰の在り方を求めることも、暴走老人に対する抑止効果をどうやって維持するか、という深刻な社会問題に対応した政策論だ。世論の高まりが意味を持つ。「署名」をするなら、こういう問題だ。

社会意識が高まり、対策が講じられることで、他の人々にも恩恵がある。言い知れない苦しみを抱えながら、前を向いた活動を行っている遺族の方の勇気には、どれだけの敬意を払っても足りない。

遺族の方へのマスメディアの取材のあり方が問題になった。遺族の方が社会的意義あることを訴えているとき、今度はしっかりと伝えていくのが、マスメディアの社会的意義であり、存在価値だろう。責任をもって、社会的意義のあることを、しっかりと伝えていってほしい。

篠田 英朗(しのだ  ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、ロンドン大学で国際関係学Ph.D.取得。広島大学平和科学研究センター准教授などを経て、現職。著書に『ほんとうの憲法』(ちくま新書)『集団的自衛権の思想史』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)など。篠田英朗の研究室