男性が性の悩みを「真面目に」話せる場がないことについて

坂爪真吾さんと飲んだ。

坂爪さんは障害者の性介助NPO「ホワイトハンズ」を運営するかたわら、社会学的な語りの手法を用いて、性風俗や売買春、不倫等について旺盛な作家活動を行なっている人だ。

坂爪さんは、ご著書「男子の貞操 僕らの性は、僕らが語る」の中で、こう語る。

男子の性は、「エロ」や「モテ/非モテ」といった、ワンパターンの文脈で語られることがほとんどです。男子の性は、意外にも実態が見えにくく、分析や支援の対象としてまともに取り上げられること自体、少ない状況にあります。

(中略)

僕たち男子が、自分の性を語らない、語れないことによって、性に関する様々な社会問題が見て見ぬふりをされ、「そもそも存在しないもの」として、放置されている現実があります。その結果、社会的に弱い立場にある女性や子ども、障害者、陽の当たらない売春・性風俗の世界に、現代社会の性に関する、あらゆるツケや矛盾が押しつけられてしまっています。

僕はこの部分を読み、まさに、と深く頷かざるを得なかった。

下ネタとしてだけ消費される男性の性

例えば男性だけの飲み会でセックスレスの話題が出たら。

「最近、妻ともご無沙汰で・・・」

「いやー、うちもですわ。もうそんな風には見られませんな」

「じゃあもう、今夜はもう、新宿で一発行きますか!?ワハハハハ!」

みたいな感じ下ネタとして消費されることになる。

逆を言うと、下ネタ以外で自らの性の話題をシェアすることはできないし、真剣にそれについて相談したり議論したり、という文化的土壌も無い。

結果として、本当に悩んでいたとしても、男性はそれを抱え込まざるを得ないし、「無かったこと」にして蓋をしても、それはある種の「歪み」となって、私生活の他の部分に影響を与えていってしまう。

男性性と言う軛(くびき)

さらに話をややこしくするのが、男性性(ジェンダー)と言う軛である。

「男は泣き言言わずに、黙って、ロジカルに一人で課題解決をすべき」と言う非明示的な規範が、我が国にはあるように思う。

よって、人前で男性が泣くのは恥ずかしいことだし、自分で解決できないことを人に相談することは「弱い」ことだと考えてしまいがちだし、弱さを見せてはいけない、と言う強迫観念が、「誰もあからさまに言ってはいないけど」存在している。

そうした男性性の軛によって、男性はより、他者に「相談できない」存在となる。

そもそも、「相談する」と言う選択肢さえ思い浮かばない。そんな弱い自分では無いはずだ、と。

こうして、性(セックス)に関する悩みや課題は、男性性(ジェンダー)による心理的バイアスによって、無意識下に閉じ込められ、気づかないうちに「意識」に影響を与え、男性たちの生きづらさを形作ることになる。あるいは不倫や別離や社会的制裁などによって、破綻をもたらす。

社会課題として認知されていない

こうした、広い意味での「男性の生きづらさ」に関わる問題は、社会課題とは認知されていない。

それどころか、男性は女性よりも平均収入が高く、長年に渡って女性の権利と可能性を押さえつけ続けてきた、「加害者」側だ。

特権階級である男性が、実は社会的規範の「被害者」でもある、と言うことについて、なかなか社会的同意は得られづらい。

それどころか、男性サイドも、自分が社会の抑圧の被害者であることを、認めたく無い場合が多い。「自分が被害者なわけがない。そんなに弱い存在として、扱ってくれるな」と。

このようにして、どのような社会的なアクションや変化も起きず、男性性の問題は、「個人的な逸脱」として処理されていく。

「不倫をする男はクズ」
「性癖が異常な男は、変態」
「風俗に行く男は、女性を搾取している」
エトセトラエトセトラ。

確かにその通りかもしれない。でも、本当にそれ「だけ」なのか。

男性の性を安全に話せる場が必要

(多くの人には賛成されないだろうけれど)僕はこの男性の性にまつわる生きづらさについて、個人的な問題の集まりというよりも、社会的課題だと感じている。

ただ、これをどう「解決」すべきなのか、それに向かってどのような社会制度を構想すれば良いのか、分からない。

それでも、生きづらさを抱えた当事者たちが、心理的に安全な、「ネタとしてではなく、真面目に話せる」場は必要なんじゃないか、と思う。

坂爪さんでも誰でも、そういう場をつくってくれる人がいたら、心から応援したい。生きづらさを抱える、一人の男性として。


編集部より:この記事は、認定NPO法人フローレンス代表理事、駒崎弘樹氏のブログ 2019年8月18日の投稿を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は駒崎弘樹BLOGをご覧ください。