あおり運転の末、傷害事件を引き起こした被疑者が逮捕された。連日、事件の一部始終がまざまざと報道され、我々の感情を大いに刺激した。そのような報道を改めて冷静に見つめたとき、我々は一連の報道によって、アジテーションされてはいなかっただろうか。鏡にはあおり運転事件が映り、鏡の前にはそれを煽り煽られる我々の姿があったのではないだろうか。
我々はある出来事によりエモーショナルとなった場合、対象者を晒して攻撃的になる。そして、我々は過熱して熱狂し、月日が経てば忘却して、また別の出来事に移行する。一連の過程において我々がウエイトを置いているものは、その出来事が政治にしろ、犯罪にしろ、スポーツにしろ、出来事ではなく、乱痴気騒ぎすることそのものではないだろうか。
客体はその作用について、自覚している場合もあれば、無自覚な場合もある。そして、扇動され、エモーショナル且つマジョリティのワンマンと化し、付和雷同を引き起こす。我々はイケイケドンドンという泥沼化を招いてしまう。
日頃の鬱憤をそこに込めるが如く、客観性及び冷静さを欠いてしまう。ただただ騒ぐことが目的となり、物事の本質が置き去りにされてしまう。そのような構造に気付き、一歩引いてロジカルに思慮することができたならば、我々は煽られずに済むだろう。
政府やマスメディアは情報を流し、世論を形成する。そこには、どのような意味があり、何の為の情報なのだろうか。情報はある目的を持って、世論を一定の方向に誘導しようとする。数多とある情報の真贋や本質を見極めることは非常に困難である。また、情報は発信者や受信者により、同一の情報だとしても自由自在に変形しうる不安定さも併せ持つ。さらに、中には不確実性が非常に高い情報も混在しており、複雑怪奇な様相を呈する。
そのような情報に否応なしに影響を受けざるを得ない今日の社会は「超情報社会」である。我々は「超情報社会」という大海原をどのように渡り歩けば良いのだろうか。
即席の情報に踊らされることなく、冷静且つ客観的に情報を捉えるためには、情報を鵜呑みにせず、反芻することが重要ではないだろうか。情報は誰かが作った物であり、多かれ少なかれその人の主観が内在してしまう。それに丸め込まれない為に、自分軸を確立することにより、情報の峻別を図っていく必要がある。
情報が媒体というフィルターを通して我々に提供されるならば、そこに疑いの目を向けることにより、惑わされずに済むだろう。また、直接的な経験や体験を通じて得た情報であったとしても、真実かどうかは分からない。だからこそ、常に健全な懐疑心を身につけることにより、より冷静に物事を判断することができる。
超情報社会は実にカオスである。そのカオスを一瞬にして打ち壊し、我々に大いなる刺激をもたらすものこそ、プロパガンダに他ならないことを念頭に置く必要があろう。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、