ローマ法王フランシスコは18日、一般謁見の場で、「人間が始めた業、プロジェクトは決して存続しない。時間の長短はあっても最後には暗礁に乗り上げるが、聖霊があるところでは困難があっても生き続ける」と語り、「教会(ローマ・カトリック教会)が多くの不祥事、スキャンダルを犯したとしても滅亡することなく生き延びてきたのは神が教会を救うからだ」と述べた。バチカン・ニュース独語電子版が17日、トップで報じた。
法王の発言は法王自身の不動の「信仰告白」として聞けば問題ないが、そうでなければ、「なんと傲慢な話だ」と少し憤慨するかもしれない。「神が救わなければならない人間が多くいる時、未成年者への性的虐待を犯す教会を神がどうして救わなければならないのか。順序が逆ではないか」といった声が飛び出したとしても不思議ではない。
フランシスコ法王は、イエスの十字架の時、イエスの同伴者と受け取られるのを恐れて逃げだした使徒たちが後日、聖霊を受け、死をも恐れない勇気ある使徒に生まれ変わった例を挙げ、我々も同じように勇気をもって困難を克服できる、と説明している。なぜならば、聖霊がそのように我々を生まれ変わらすからというわけだ。この信仰姿勢は他力本願の極致だ。
ところで、スキャンダルにもかかわらず、換言すれば、聖職者の未成年者への性的虐待事件が数件ではなく、世界の教会で数万件起きているといわれる時、神は果たして、その性犯罪の本拠地である教会を救うだろうか。
フランシスコ法王が言ったように、神がスキャンダラスな教会をも救われるというのならば、聖職者の性犯罪の犠牲となった平信徒や未成年者はどう感じるだろうか。もちろん、救いは神の業であり、神の権限だから、その領域について人間が、ああだ、こうだと干渉することは不敬に当たるかもしれないが、少なくとも公正に欠けている、といわざるを得ないのだ。
旧約聖書の「サムエル記下」では、ダビデを殺そうとするサウル王を彼は何度も打ち破る機会があったが、ダビデは、「神が油を注いだ者に手を出すことはできない」として、サウル王を生かしておいた話が記述されている。旧約聖書の世界では「神が油を注いだ者」に対しては絶大な権限が与えられていた。同じように、フランシスコ法王は教会が「神から油を注がれた館」と受け取っているのだ。選民思想だ。
世界の教会で聖職者の不祥事が今なお続いている。例えば、バチカン裁判所は17日夜、バチカン経営の寄宿舎で過去、2人の聖職者が2012年前に未成年者へ性的虐待を行ったとして起訴したという。礼拝を助ける若者を育成し、将来は神父の道を歩みだす少年たちが集まる寄宿舎(11歳から14歳の少年を収容)で聖職者たちが性的虐待を行っていたというのだ。
一方、オーストラリアでは、フランシスコ法王が信頼し、新設した財務省長官に任命したジョージ・ペル枢機卿(78)は昨年12月、2件の未成年者(教会の少年合唱団)への性的犯罪で懲役6年の有罪判決を受けたが、同枢機卿の弁護士によれば、キャンベラの最高裁に控訴手続きを申請したという。裁判の行方を見なければ分からないが、バチカンのナンバー3の地位にあった枢機卿の性犯罪問題は深刻だ。
バチカンは今年2月、世界の司教会議議長らを集めて聖職者の性犯罪への対策について協議した。バチカンは事の重要性を認識している。聖職者の性犯罪の多発で教会への信頼性はガタ落ちだ。様々な対応策が出てきたが、決定打はなく、状況に大きな変化はない。ただし、教会上層部は聖職者の性犯罪をもはや隠蔽できなくなってきたことは事実だ。一歩前進だが、聖職者の性犯罪を解決する打開策はないのだ。
聖パウロの嘆き(「ローマ人への手紙」第7章23節)ではないが、21世紀の聖職者も自身の肢体には2つの性向を抱え、自身の良心に反して悪なる業の誘惑に負けてしまう。残念ながら、聖職者の性犯罪は今後も発生するだろう。その哀れな教会を神は救う、とフランシスコ法王は豪語するのだ。
イエスは罪深い売春婦のほうが「自分たちは神に救われている」と自惚れる律法学者より救われるといわれた。教会は売春婦の立場だろうか、それとも律法学者の立場だろうか。
フランシスコ法王の確信、信仰告白は非常に薄い氷の上をアイススケートするような状況ではないか。氷は割れ、水中に落ちるかもしれない。法王はその恐れを感じながらも「神は教会を救う」と宣言しているのだ。
洗礼ヨハネは、「自分たちの父にアブラハムがいるなどと、心の中で思ってもみるな。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ」(新約聖書「ルカによる福音書」第3章)と指摘し、神の選民は血統や血筋ではなく、神の御心を行うものが神の民だと述べている。
教会は昔、聖典を独占し、多くの平信徒は聖書を自分で読み、判断することもできなかった。教会は神を独占してきた。聖職者の性犯罪は教会の威信だけではなく、その教会を建てた神すら傷つけている。スキャンダルの多い教会から、今こそ神を解放すべきだろう。教会は神がなければ存続できないが、教会がなくても神は存続できるから。
■
「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年9月20日の記事に一部加筆。