出生数90万人割れが示す恐怖

岡本 裕明

2019年の出生者数が90万人を割るかもしれないと日経が一面で報じています。これは今年1-7月の出生者数約52万人をベースに年換算するとそんなことになる可能性が高いという推測記事ですが、出生者数が月ごとに大きくぶれるわけでもないのでその公算は高いのでしょう。

写真AC:編集部

記事で気になったのは2点。1つは2017年に想定していた2019年の出生者数が92万人であったのにそれを2%強下回る状況になりそうだという点です。2年前の想定とこれほど違うというのは想定の前提が甘かったと言わざるを得ず、2年でたった2%かもしれませんが、10年後、30年後、50年後といった想定人口には極めて大きなばらつきとなり、大幅な下方修正を余儀なくさせられるかもしれません。

もう一つは出生適齢年数の女性の数です。現在の40代は団塊ジュニアということもあり、907万人いますが、30代は696万人、20代は578万人しかいないのです。母数の縮小は仮に出生率がどれだけ上がっても実数は上がらないことを示しています。これは将来人口という断面で見れば恐怖そのものであります。

なぜ、出生率が上がらないかについてはこのブログでも過去何度か取り上げています。社会が平和であること、教育費や住居の問題、女性の社会進出、子供への対応が数から質へ変化、家系の維持という価値観の欠如、多忙になったこと、宗教的背景、娯楽を含め一人でも楽しめる社会が実現したことなどいくつもの理由が重なっていると考えています。そして出生適齢期の人たちの認識が「子供はいても一人でいい」という意識を情報化社会の中で一種の常識観として植え付けられていることもあるのでしょう。

もっと極端な話、子育てが面倒くさいという単純な発想も多いはずです。最近は聞かなくなりましたが、パチンコ屋の駐車場に子供を放置して脱水症状になって亡くなったという話は単にパチンコが衰退し、スマホのゲームにとって代わっただけかもしれません。

昔はなぜ、子供が多かったか、といえば生活の中での楽しみが家族団らんだったからでしょう。午後7時には家族が揃って食卓を囲み、テレビを見ながらみんなで今日は何をした、という話をするという絵にかいたようなサザエさん的な昭和の家庭は社会の変化とともに消滅し、「個の生活」が主体となったからであります。

世界を見渡しても確かに出生率は下がっています。例えばアメリカは2018年に史上最低の1.7となったと報じられていますし、カナダも1.5程度ですので日本だけの問題ではなく先進国や都市化が進んだ地域での共通の問題であります。

個人的にはこの傾向は加速度はつけど改善することはあまり期待できないとみています。ただ、いくつか効果がありそうな手段としては家系の維持として相続税の撤廃を含む大緩和策はじわりと効果を出すとみています。なぜ働くのかという労働思想の転換や自身の老後の面倒を家庭内で解決する手段は価値観の変化をもたらすかもしれません。

もう一つは1歳程度から預けられる託児所の拡充やナニー制度の導入でしょうか?北米では当たり前なのですが、日本では自分の子供を他人に預けるのはあり得ない発想です。しかし、他人に預けることで躾を代行してくれるという見方もできるのではないでしょうか?フィリピンあたりのナニーさんは世界で幅を利かせています。

このブログは経済の断面から見ることが多いのですが、人口の縮小は当然ながら国家の経済力に直結します。ただ、いろいろな見方もあり、総GDPで見るのか、一人当たりGDPで見るのか、と考えれば人口の多い中国やインドにはもはや総GDPでは太刀打ちできないのですから国家の富の尺度を考え直すことも必要なのかもしれません。

かつてブータンが国民幸福度GNHで世界一になったもののその後、すっかり消えてしまいました。幸せ尺度を一概に数値化するのは難しいとは思いますが、日本人が美しい日本を維持していこうと考えるように家庭も維持していこうと考えられる余力を持てるような社会の形成が出生率回復に最も効果があるのだろうと察しています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年10月8日の記事より転載させていただきました。