仁徳天皇を侮辱する朝日新聞記事

「こんなところで、こんな記事を書くのか!?」というのが正直な感想だ。

私は朝日新聞の愛読者として社説や論考等々を中心に色々読み込んでいる一人だ。随分と読み慣れているから、朝日新聞が多少おかしなことを主張しても動じはしない。「ああ、またやっているな 」と思う程度である。

しかし、今回ばかりは驚かされた。
衝撃の記事が掲載されていたのは、12月15日のテレビ欄である。テレビ欄に出鱈目が書かれていたわけではない。「試写室」という番組を紹介する記事に驚かされた。

この日の「試写室」では、「世界遺産『超巨大!仁徳天皇陵古墳のナゾ」というTBS系の番組を取り上げていた。別にここまでは驚かない。驚くのは次のような記事の内容だ。

「たんまりと富や権力を得た生は、さぞ手放し難かろう。生きた痕跡として巨大な墓を造り、次に行く世での安寧を願うのも、さもありなん」

「名もない私の墓が跡形も無くなった後も。彼らの墓は残り続けるのだろう。生前の富と権力が、何千年にもわたって民との違いを生み出し続ける」

この記者が書いているのはレーニンやスターリン、あるいはヒトラーのような独裁者のことではない。日本史上、稀な仁政を為したといわれる仁徳天皇についての記事なのだ。

仁徳天皇と言えば、誰もが思い浮かぶ御製があろう。

「高き屋に 登りてみれば 煙立つ  民の竈は にぎはいにけり」

この御製の意味を解説する前に知っておかねばならないことがある。

ある日、仁徳天皇は高いところから、民の生活を観察していた。しかし、食事時になっても一向に炊事のための煙があがってこない。民衆が食べるものにも事欠くような貧しい生活を送っていることに心を痛めた仁徳天皇は、三年間徴税を中止することを決意する。このことによって、仁徳天皇ご自身の生活が大変苦しいものになったことは言うまでもない。宮殿は雨漏りするが、それを直す財源もなかったという。

三年後、再び、高き屋に登って、民衆の生活を観察すると、次々と家々の竈から煙が立ち上っている。
これに喜んで作られた御製が、先ほど紹介した「高き屋に 登りてみれば 煙立つ 民の竈は にぎはひにけり」だ。

これほどの善政を敷いた為政者に対して「たんまりと富や権力を得た生は、さぞ手放し難かろう」というのは、歴史に対する無知、あるいは中傷の類ではないだろうか。「たんまりと富や権力」を得た人物ではなく、民衆のために「富」を手放したのが仁徳天皇なのだ。

こうした不思議な言説を展開する背景には一つの図式的な考え方、すなわちイデオロギーが存在していないだろうか。要するに、権力者は常に悪であるという考え方だ。古くはプラトンの『国家』に登場するトラシュマコスが説いた考え方であり、近代であれば、マルクス主義者たちが説いた考え方でもある。

例えば、トラシュマコスはソクラテスに対して次のように主張する。

「支配階級というものは、それぞれの利益に合わせて法律を制定する。…(略)…そしてそういうふうに法律を制定したうえで、この、自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって〈正しいこと〉なのだと宣言し、これを踏みはずしたものを法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する。」

支配者階級は常に自分たちの利益のことしか考えておらず、そのためには法律まで活用するというのがトラシュマコスの主張だ。確かに、そういう面があるのは事実だ。しかし、必ずしもそうでない支配者階級が存在してもおかしくない。

この朝日新聞の記者のように、権力者は全て腐敗しているような先入観を持っていては、統治という営み、政治という営みが不可能になる。いずれの世にも権力者は存在するからだ。権力者が全く存在しないという社会はアナーキーな世界そのものだろう。ホッブズが「自然状態」として描いた社会といえばよいだろうか。そんな世界に住みたいという人は少ないはずだ。

権力は常に悪であるという偏見が生み出したとしか思えない記事だ。

こちらの番組で詳しく解説しておりますのでご覧いただければ幸いです。

岩田 温  大和大学政治経済学部講師
1983年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院修了。専攻は政治哲学。著書に『偽善者の見破り方 リベラル・メディアの「おかしな議論」を斬る』(イースト・プレス)『人種差別から読み解く大東亜戦争』『「リベラル」という病』(彩図社)、『逆説の政治哲学』(ベスト新書)、『平和の敵 偽りの立憲主義』(並木書房)、『流されない読書』(扶桑社)などがある。ブログ『岩田温の備忘録