さようなら三宅雪子さん。元政策秘書より追悼の辞

2020年01月09日 06:01

三宅雪子さん(Facebookより)

三宅雪子さん、切ない結末でした。私が死ぬならまだしも、年末はあんなに元気だったのに愕然とするばかりだ。「来年は政治復帰したいから藤川さん真剣に考えてよ」。そう言っている彼女の顔と声が浮かぶ。

国会議員に不意になってしまったことの悲劇のようなものを感じる。当選するとちやほやされるが、元議員は何だか寂しい雰囲気が漂う。政治から脱皮出来ずにもがいていた浪人生活。それでもルポライターとして政治周辺の情報を集めて最後まで熱く語っていた。

2009年、私は小沢系の参議院議員秘書だったが、小沢一郎氏の命により群馬高崎での元総理との選挙戦を仕切ることになった。スタッフと酒を飲みながら「真夏の雪子が奇跡を起こすだな」と閃いて、選挙事務所にデカイ雪だるまを置いて話題になった。選挙カーは雪の結晶を模様に。そして、まさに落下傘選挙。民主党への風が吹き、手応えのある選挙戦が出来てなんとか比例復活当選を果たしたのだった。

上州戦争の地だったので、福田元総理と戦うには中曽根陣営を切り崩すべしと奔走したのが懐かしい。これは意外に効を奏した。残念ながら小渕陣営からは、小渕総理は小沢一郎に殺されたと非難された。三宅さんは選挙のことは全くわかっておられなかったので、候補者として仕上げるのは大変だった。

フジテレビの社員だったが、大物代議士のお孫さん。骨の随までお嬢様だっただけに、繊細で独特の感性をお持ちの方だった。私は秘書としてかなり厳しくいろいろ苦言を呈しながら、当選後もお仕えした。実にビュアな方で、ご一緒に政策勉強をし質問のお手伝いをさせていただいたが、私も三宅さんを通じて多くを学ばせていただいた。

しかし、悲劇は民主党政権の限界とともに、三宅さんの運命を変えた。民主党が分裂し、生活、未来へと流れが変わる中で、小沢先生に可愛いがられ、在職中に驚くほどたくさんのエピソードを残して、次の選挙は高崎を捨てて、千葉県で民主党の元総理に挑んで破れ、そこから三宅さんの現実と理想の間の迷走劇が始まったように思う。

私は2年ほどで三宅事務所を辞したのだが、その間に転倒、転落事件を起こして事務所はほんとうに大変だった。何故か攻撃してくるマスコミと強い人間関係が生まれたのは不幸中の幸いだった。残念ながらその後の三宅さんにはいくらか痛々しいものを感じていた。時折、長話をしたものだったが、ほとんどが、三宅さんの一方的な弾丸トークで、周囲との人間関係の軋轢の話が多かった。

気分にむらがあり、言行に幾分気まぐれなところが目立ったが、よく勉強もして議員時代よりもその後のほうが政治的に熱心な動きをしていて私はその成長ぶりに感心したものだった。しかし、上昇志向が高い分、落差も激しくいつも何かに傷ついていたようでもあった。そのためか孤独の闇を常に抱えているのではないかと感じていた。少なくとも30日まで元気に明るく語っていたはずの三宅さん。大晦日に何があったのか謎である。

お通夜の写真は当選証書をもらった時のもので実に輝いていた。その明るい笑い顔を見ると思い出が脳裏に次々とよみがえってくる。こんなにもたくさんの共有する時間を過ごして来たのかとあらためて思った。あれから10年。あまりにも突然の巻く引きだった。

直近の三宅さんを私はよく知っている訳ではないが、焦燥感と迷路の中でもがいているイメージを強く抱いていた。それだけに来年に向けてその突破口が見いだせるようにと心から願っていた。そのためにいくらかでも役に立てればいいのにと率直に思っていた。

ところが、不意に、全く不意に、三宅さんはあっけなく鬼籍に逝ってしまった。命の儚さと人生の難しさを思い。複雑な気持ちくに包まれながら、この数日で三宅さんとの時間があっけなく閉じられてしまった。

さようなら三宅さん。今はただゆっくりと静かに浮き世から解放されて成仏されますように。ご冥福を祈るばかりです。

藤川 晋之助   政治アナリスト、国会議員秘書
23歳の時、選挙の手伝いをきっかけに国会議員秘書となる。代議士秘書、大臣秘書、地方議員、放浪と隠遁生活を経て東南アジアでいくつかの事業に挑戦。帰国後、東京で藤川事務所を設立し、国会議員や首長の政策立案、選挙をサポートする。政官マスコミに幅広い人脈を持ち、田中派・小沢派での豊富な選挙経験を武器に高い勝率を誇る「選挙のプロ」としても名高い。趣味は文学と政治。

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藤川 晋之助
政策アナリスト、国会議員秘書

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