風評被害が生じるとする風評を流す朝日新聞 - ナッジ理論の悪用

2020年02月03日 06:01

2020年1月31日、経済産業省の有識者小委員会がトリチウム処理水について、海洋放出の優位性を示した取りまとめ案を概ね承認しました。これに対して、朝日新聞は2020年2月1日の社説で「風評被害が生じる恐れがある」「地元との対話に、政府が海洋放出ありきの姿勢で臨めば反発を呼ぶだろう」とする見解を述べています。

これは朝日新聞の以前からの一貫した主張であり、非論理的な海洋放出反対の世論形成に大きな影響力を与えています。この影響力の背景には、行動科学分野で注目されている「ナッジ理論」の悪用があると考えます。

福島第1原発のALPS処理水タンク(経済産業省・資源エネルギー庁サイトより:編集部)

ナッジ理論とは

【ナッジ理論 nudge theory】とは、シカゴ大学のRichard Thaler(経済学)と Cass Sunstein(法学)の著書 “Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness (2008)” によって広く知られるようになった著名な行動科学のアイデアです。

【ナッジ nudge】とは、行動の選択を禁じたり、インセンティヴを大きく変えることのない予測可能な方法で人間の行動を変える【選択アーキテクチャ choice architecture】です。簡単に言えば、人に何かを強制的にやらせるのではなく、背中を軽く押すことによって人に何かをするよう誘導する間接的情報をさす概念です。このような強制的でなく影響を与える行動は【リバタリアン・パターナリズム libertarian paternalism】と呼ばれます。人はナッジに誘導されているにも拘らず、自由意思で物事を選択した気になるのです。

ナッジの例としてよく挙げられるのが、男子トイレの便器に貼られている[ハエのシール]です(念のため、私は実物を見たことはありませんがwww)。アムステルダムのスキポール空港では、男子トイレの小用便器にこのシールを貼ったところ、清掃費が8割減少したそうです。男子の皆さんは、清掃費用削減のために、「何かしろ」と言われることもなく、何かを誘導させられたのです(笑)。

ナッジ理論では、複雑なアルゴリズムによって答えを出すのではなく、アルゴリズムの要所のみを使った単純な形で迅速に答えを出す【ヒューリスティック heuristics】という人間の思考回路が利用されます。上述のハエのシールの例では、いち早く得た情報を重視して意思決定する【能率的ヒューリスティック fluency heuristic】が利用されています。

ナッジ理論を悪用する朝日新聞社説

朝日新聞はトリチウム処理水に関する経済産業省の小委員会の提言に対して次のような社説を書いています。

トリチウム水 福島の声を聴かねば(朝日新聞 2020年2月1日)

東京電力・福島第一原発の汚染水を浄化処理した後、放射性物質トリチウムが残留する水をどう処分するのか。経済産業省の小委員会が、とりまとめの提言を大筋で了承した。薄めて海に流す「海洋放出」を事実上、最も重視する内容になっている。これを参考に、政府はトリチウムを含む処理水の処分方法や時期を判断する。環境中に放出すれば、風評被害が生じる恐れがある。拙速な判断は厳に慎まねばならない。

(中略)小委は2016年から、経産省の作業部会が示した5案について、技術的な側面に加えて、風評被害など社会的な影響も含めて検討してきた。
(中略)明言こそ避けたものの、海洋放出に優位性があることを示唆している。とはいえ政府は、これをもって安易に海洋放出を決断してはならない。「地元の自治体や農林水産業者など幅広い意見を聴いて方針を決めることを期待する」。この小委の要請を、重く受け止めるべきだ。地元との対話に、政府が海洋放出ありきの姿勢で臨めば反発を呼ぶだろう。自治体や事業者のほか、地域住民らの声を誠実かつ丁寧に聴いてほしい。

この社説における「トリチウムを含む処理水を環境中に放出すれば、風評被害が生じる恐れがある」なる言説こそナッジに他なりません。

トリチウムに関する知識のない多くの大衆が、「風評被害が生じる恐れがある」とするこの言説を聞けば、トリチウムという元素は取り扱いを一歩間違えれば危険なものであり、「環境放出に対して議論の余地がまだあるのでは」という疑念を引き起こす可能性があります。これは、意思決定にあたって、典型的な事象(放射能汚染)の生起を過大評価して判断する傾向である【代表性ヒューリスティック representativeness heuristic】によるナッジです。

現在、世界中で稼働する原子力発電所で発生したトリチウム水は希釈されて海に放出されており、危険性はありません。それにもかかわらず、大衆は、リスクがゼロではないような言説を聞くと、マスメディアや活動家によってすり込まれてきたハザードを想起して危険を感じてしまうのです。これは損失の発生を何よりも嫌がる【損失回避 loss aversion】という人間心理に備わった傾向によるものです。

この社説の非常に姑息なところは、トリチウム水の放出に環境リスクが存在しないことを明確に述べすに「風評被害が生じる恐れがある」と述べていることです。朝日新聞は過去にも社説で次のように主張しています。

福島の汚染水 海洋放出ありきでなく(朝日新聞 2018年09月06日)
たしかに、トリチウムは自然界でも生じているほか、全国の原発は運転中にできたトリチウムを法定基準に従って海に流している。しかし、だからといって、福島の海に汚染水を流せばいいと考えるのは早計である。いまだに福島産の食品の輸入を禁じる国々があるなか、地元は漁業や農業の復興に努力を重ねている。ここでトリチウムを海に流されたら風評被害が広がる、と懸念するのは当然だ。公聴会でも海洋放出への反対意見がほとんどだった。

「放出は安全であるが、風評被害が広がるので放出してはいけない」とするこの言説は極めて非論理的であるばかりでなく極めて不誠実です。朝日新聞のようなマスメディアが、小池劇場・モリカケ・桜の10分の1でも「風評を信じてはいけない」と報道すれば、風評被害など発生する余地は無くなります。あえて言えば、一般社会的事実を掲載する公共的使命を果たさずに風評の発生を黙認するような新聞に軽減税率が適用されているのは極めて理不尽です。

「地元との対話に、政府が海洋放出ありきの姿勢で臨めば反発を呼ぶだろう」とするのも地元住民に反発を誘発するナッジです。過去に風評被害を受け、将来の風評被害を恐れている地元住民がこの言説を聞けば「やはり風評被害が生じるのか」という疑念を引き起こす可能性があります。これは、意思決定にあたって、想起しやすい記憶を重視する【利用可能性ヒューリスティック availability heuristic】によるナッジです。

そして地元住民に同情する大衆がこの言説を聞けば「地元住民がまた被害を受けるかもしれない」という疑念を引き起こす可能性があります。これは、意思決定にあたって、同情心などの感情を重視する【感情ヒューリスティック affect heuristic】によるナッジです。

このように朝日新聞は、「風評被害が生じる恐れがある」という非論理的なナッジを使って大衆や地元住民の背中を軽く押すことで、トリチウム処理水に自発的に反対するよう誘導しているのです。風評被害を抑止することができる朝日新聞が風評被害の発生を許容しているという理不尽な状況に誤解している大衆も地元住民もいい加減気づくべきです。

ナッジにつられる小泉環境大臣

風評被害が発生する必要条件は、風評が発生することです。その風評を全力で抑止する最終的責任は政府にあります。経済産業省は風評の払拭をマスメディアを通して大々的に行うべきですが、まだ、そのような姿勢は見えてきません。

環境省公式YouTubeより:編集部

その一方で、環境大臣が「風評被害が生じる恐れがある」というナッジを否定せずに、逆に助長しているのは不合理そのものです。2019年9月13日、小泉進次郎環境大臣は風評を払拭する努力をした原田義昭前環境大臣の海洋放出発言を漁連の組合長に謝罪し、風評被害の可能性を肯定しました。

小泉進次郎環境大臣会見 2019年9月13日
この問題というのは、昨日、私、小名浜に行って漁連の組合長ともお話をしましたが、今日に至るまで漁師の皆さんがどんな日々を過ごしてきたのかということに思いをはせなければ、発言はできないと思います。海をなりわいにしている方々が海に出られなくなるということがいかなることか。そして、出られても、試験操業という段階が続いていることも通常のことではありません。そして、そこまで来る過程の中で、一体どれだけ風評被害と実害を含めて被ってきたのかということを考えれば、慎重に慎重を重ねて、何よりも浜の皆さんのことを思い、福島の皆さんのことを思いながら対応しなければいけない事柄だと思っています。なので、まずはお会いしに行きました。そうしたら、いいことを聞きました。今、福島の試験操業で何が捕れますかと言ったら、ノドグロが捕れると。ノドグロは私も大好きですけど、ノドグロが捕れるんですか、福島で。そうなんだよ、最近ノドグロが捕れるんだよと。じゃあそれ、今度一緒に食べましょうと、そういう話で明るくなりましてね、今度、環境省にも来てくれるというので、その皆さんと一緒に部屋でノドグロを食べられればなと思いますし、福島の海産物というのはこんなに魅力があるよと、そういったことも。

安全性に関する科学的な論証を無視してこのような【同情に訴える論証 appeal to pity】を続ける限り、この問題は解決せずに長引くばかりです。今の政府に必要なのは、細野豪志議員の[主張]のような理路整然とした言説を正々堂々と大衆に向けて【ホワイト・プロパガンダ white propaganda】することに他なりません。

常態化するマスメディアによるナッジ理論の悪用

マスメディアがナッジ理論を認識しているかどうかは別として、実際にナッジ理論を悪用するに等しい行為はマスメディアで常態化しています。次の一連の報道はその典型です。

河野防衛相(防衛省サイトより)

朝日新聞 2019/10/28
河野太郎防衛相は28日、東京都内で開いた政治資金パーティーで、「私はよく地元で雨男と言われました。私が防衛大臣になってからすでに台風が三つ」と述べた。会場の参加者からは笑いが起こった。台風19号などで東日本を中心に多数の死者が出ており、不謹慎との声が上がりそうだ。

共同通信 2019/10/28
発言は軽率だとの批判を浴びる可能性がある。

時事通信 2019/10/28
問題視される可能性もある。

テレビ朝日『報道ステーション』 2019/10/28
軽率だとして批判を受ける可能性があります。

TBSテレビ『NEWS23』 2019/10/28
批判の声があがりそうです。

2019年10月28日の夜、河野太郎防衛大臣が「雨男」発言をしたとして、マスメディアが一斉に速報で「批判される可能性がある」とする見解を出しました。いずれのマスメディアも「問題である」と明確に述べることはなく、賛否を情報受信者に委ねていますが、明らかに発言の問題化を狙っています。一部の大衆はマスメディアを権威と考えているため、マスメディアが批判の可能性を示唆した場合、それをそのまま受け取ってしまいます。

これは、意思決定にあたって、ポジティブよりもネガティブな感情を重視する【陰性バイアス negativity bias / negativity effect】というヒューリスティックを利用したナッジです。

一方で実際の河野大臣の発言は次の通りでした。

河野太郎大臣 2019年10月28日
私はよく地元で雨男と言われました。私が防衛大臣になってからすでに台風が三つ、そのたびに災害派遣、自衛隊員自衛隊の隊員が出てくれております。あらゆるところで自衛隊の諸君に頑張ってもらっているわけですから、少し隊員の処遇の改善をきちんとやらねばと思っております。

実際には、河野大臣がウケを狙った素振りはなく、会場の参加者が勝手に笑ったものでした。いつものようにマスメディアが言葉を切り取ったのです。それでも、河野大臣はすぐに謝罪をしました。マスメディアが徒党を組んで示し合わせたように同一のナッジで大衆誘導を行うのは国民を小バカにしている証左です。

悪質なナッジに騙されないために

本来、ナッジ理論は、個人の偏見や先入観を除去して合理的な行動に誘導することを目的としたポジティヴな考え方です。それが日本のマスメディアによって悪用されている現状は憂慮すべきと言えます。このような悪質なナッジに騙されないためには、「私達の選択によって何かしらのネガティヴな事象が発生する可能性がある」とするマスメディアの言説に対して細心の注意を払い簡単に同意しないことです。

私達が風評を振り撒かなければ風評被害は発生しませんし、批判すべきでないものを批判しなければ不公正な状況は発生しません。マスメディアはときに私たちを発信源とする【ブラック・プロパガンダ black propaganda】を実行しようとしているのです。試されているのは私達のメディア・リテラシーに他なりません。


編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2020年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。

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