ヘイトスピーチより放置できないヘイト規制論(上)

2020年02月16日 06:00

一方的な報道

川崎市が所管するふれあい館に在日コリアンの殺害を宣言する年賀状が届いた事件がリベラル系マスコミで話題になっている。神奈川新聞・BuzzFeed Japanはこの事件を「ヘイトクライム」として積極的に取り上げ、それを受けてか国際派女優たる水原希子氏(韓国人とアメリカ人のハーフ)もSNSで積極的に発信し、この事件への国と川崎市に対策を求めるネット署名に賛同している。

「在日コリアンへのヘイト」にインスタで触れた水原希子さん。その訴え(BuzzFeed Japan)

Wikipedia、ふれあい館HPより

神奈川新聞は脅迫年賀状により来館者が減少したことを報じているが年賀状である以上、それを閲覧した人間は限られるはずで情報波及経路の検証は不可欠と言えよう。

脅迫はがきの影響か 川崎市ふれあい館で利用者が減少(カナロコ)

この事件は施設の外壁や正面道路に大きく落書きされたものとは違うことを留意したい。

リベラル系マスコミはこの事件を「ヘイトクライム」と呼びまるで大規模な殺傷事件に発展するかのように報道しているが、筆者は「では何故、施設を休館しないのか」と思うのである。公共施設である以上、単純な「被害者」ではなく利用者を守る責務があり、その手段として「休館」も立派な選択肢である。仮に休館したとしてもそれはヘイトクライムに屈したことを意味しない。

筆者はむしろ施設側が休館しなかった事実にある種の「冷静さ」を感じるのである。

上記のとおりこの事件では一部市民団体が国と川崎市に対応を求めているが、当事者である川崎市は当然として国に何を求めているのだろうか。あるいは国は何をしていないというのだろうか。施設が被害届を提出しても警察は受理しないのか(警察官は自治体職員だが国の指揮下にある)警察は施設周辺のパトロールを強化しないのか。そんなことあり得ないだろう。

おそらく要望を出した市民団体はもっと具体的な「案」がある。

それは昨年末、川崎市で成立したヘイトスピーチ規制条例の立法化、国レベルのヘイトスピーチ規制法の制定である。条文はそれこそ川崎市の規制条例を参考にすれば良い。

陰湿な事件に対してこういう解釈をすることに反発を覚える方もいるだろう。

しかし、この事件は一方的に報道されていると違和感を覚えるのが筆者の噓偽りのない感想である。

ヘイトスピーチ対策論ではこの違和感を忘れないことが大切である。 

漠然とした雰囲気の中での規制論

ヘイトスピーチ対策論に違和感を覚えるのはあまりにも一方的な主張が多いからである。ヘイトスピーチが社会的関心時になってもう大分たつが、今にいたるまでヘイトスピーチを契機とした特定人種への大規模な殺傷事件は起きておらず、また、起こる気配もない。

グロテスクな話ではあるが大規模な殺傷事件を起こすには凶器・危険物を相当程度、準備しなくてはならないし、その形状・性質によっては使用訓練も欠かせない。

神奈川新聞が「人種差別団体」とまで言い切る在特会・日本第一党が凶器・危険物を確保・運用できるほどの人員・資金・施設を確保しているとは考えにくい。

控えめにいって日本の警察の凶器・危険物に対する監視は神経質なほどであるし、日本のどこかに在日コリアンへの大規模な殺傷行為を企む勢力はいるかもしれないが、それを実現する能力はないと思われる。意思と能力は別次元の話であることを忘れてはならない。

ヘイトスピーチ問題では確かに威力業務妨害事件も起きているが現時点では「スピーチ」の域から完全に脱した運動は確認されていない。

にもかかわらず具体的な根拠が示されないまま一部団体のヘイトスピーチがまるで「虐殺」に発展するかのように語られている。

ただ漠然と「このまま放置すると大変なことが起きる」という言説が左派から力強く主張され「ヘイトスピーチ規制」が肯定される。

漠然とした雰囲気の中で事前規制を求める声はヘイトスピーチ対策論の権威を低下させるだけだろう。

「公共の福祉」を避けるヘイト規制派

ヘイトスピーチの議論になると「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれない」とか「相容れない」とか主張されたうえ、その規制が正当化される。

「含まれない」はもちろん「相容れない」も「二人は相容れない」という用例があるように「表現の自由の圏外の表現」を認めている。

ちなみに日本共産党はヘイトスピーチを「憲法が保障する『集会・結社の自由』や『表現の自由』とも、相いれません。」と評価している。

日本共産党は「表現の自由の圏外の表現」を認めているのである。

しかし日本国憲法下で認められる規制措置はあくまで「公共の福祉」に反するものだから「表現の自由に含まれない」とか「相容れない」というのはミスリードであり正確には「ヘイトスピーチも表現の自由だが、公共の福祉に反する」である。

「ヘイトスピーチも表現の自由」という事実は忘れるべきではない。決して表現の自由の圏外にあるわけではない。あくまで「公共の福祉に反する」だけである。

ヘイトスピーチを問題視するならばおよそ「公共の福祉」という言葉は避けられないはずだが、規制派の言説には不思議なほどこの用語は出てこない。意識的に避けているのだろう。なぜなら公共の福祉は憲法用語、政策用語であり規制派は公共の福祉の強調が国家権力に利すると考えているからである。

規制派は公共の福祉の強調を避けるために「表現の自由に含まれない(相容れない)」と主張しているのである。

「公共の福祉に反する」と「表現の自由に含まれない(相容れない)」は似て非なるものである。

前者は一応、「公共の福祉」という審査基準があり、それを規制される表現者に示すことができるが後者は審査基準がなく、ないがゆえに規制される表現者には何も示さなくてよい。

もっと簡単に書けば「公共の福祉に反する」と批判されたら「どの部分が公共の福祉に反するのか」と異議申し立てができるが「表現の自由に含まれない(相容れない)」と批判されたら「なぜ、含まれないのか(相容れないのか)」としか言えない。

「含まれない(相容れない)」はその事実を通知するだけだから根拠も何もない。

「含まれない(相容れない)」は「見ればわかる」と同レベルで根拠を提示しなくてよい。

「反する」と「含まれない(相容れない)」の違いは異議申し立ての有無である。

言うまでもなく排他的なのは「含まれない(相容れない)」の方であり異議申し立てが自由社会の基礎であることを考えれば、その排他性はヘイトスピーチより強い。

規制派は公共の福祉の強調を避けたいがために公共の福祉を根拠とした規制より強力な規制を肯定する倒錯に陥っている。

自由社会の圏外はない

ヘイトスピーチ対策論で忘れてはならないのは「表現の自由の圏外の表現はない」ということである。

これをより高次元で言えば「自由社会の圏外はない」ということである。「自由社会の圏外」を認めてしまうと、必ずそこに政敵を追い落とそうする勢力がでてくる。

この「自由社会の圏外はない」という思想は国内に留まらない。例えば中国・北朝鮮は独裁国家だが両国が自由社会の圏外に存在しているわけではない。中国・北朝鮮もまた自由社会の一部を構成しており、あくまで中国大陸・朝鮮半島北部が独裁政党に占領されているに過ぎない。自由社会の圏外は独裁の入り口である。

規制派にこの意識が乏しいのは明らかで、ある意味、ヘイトスピーチより放置できない。

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