「コロナ死亡ゼロリスク社会」がもたらすジレンマ

2020年05月02日 20:01

緊急事態宣言で休業中の都内のパン屋(編集部撮影)

緊急事態宣言が延長される見込みであることが発表された。1ヶ月ほどの、全国一斉の延長であるといわれ、賛否両論が飛び交っている。

また、ニュースやワイドショーでは、連日のように感染者数や死亡者数が報道されているが、PCR検査の議論はまだまだ続いているし(なかなか拡充していかない現状が続いているためだ。

ワイドショーのコメンテーターは、「なぜ拡充できないのか政府が説明するべきだ」と主張するが、現場の実務上の問題や検査会社との契約など様々な要素がある。それを取材して問題点を抽出し、世間にわかりやすく説明することはまさにマスコミの役割であり、憶測や批判ばかりするだけでは役割を果たしていないと感じるのは筆者だけだろうか)、バランスのいい報道がなされているとは言いがたい状態だ。

最近、医療政策や報道の「バランス」についてよく考えるが、医師で医療ジャーナリストの森田洋之氏の参考になる記事があった。

人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える

人間の死亡率は100%であり、人は死ぬし、もちろん高齢者も死ぬ。医療によるゼロリスクの追求は、高齢者の生活を奪い、世界の経済をとめ、人々は自ら私権の制限や監視社会という「かごの鳥」の中に入ろうとしており、得るものに比べて失うものが多いのではないか、という記事だ(この要約は大変乱暴なので、できれば森田氏の原文を読んでいただきたい)。

U.S. Pacific Fleet/flickr

コロナ死亡に関するゼロリスクの追求」は、おそらく誰も意図してはいないけれど、結果としてコロナのリスクに大きく偏った報道や、バランスを欠いているかのようにみえる政策決定を惹起してしまってはいないだろうか。

例えば、「自宅待機をしている間に急速に進行し、死亡してしまった例」が報道されると、都道府県知事が「軽症者を含めホテル移送を」と方針を発表した。もちろん、自宅待機例やホテルでの軽症例に、適切なモニタリング(遠隔診療やパルスオキシメーターの貸与など)がなされることは必要であるし、急変に対処できる仕組みは必要だ。

しかしその一方で、一般論としては、コロナ感染症にかぎらず、「急変を完全に防ぐ」あるいは「自宅での孤独死を完全に防ぐ」ことは困難だ。例えばインフルエンザは、通常入院しないが自宅で様子を見るうちに髄膜炎や脳症で急変することはあり得る。また、感染症以外でも、例えば、病状が安定しているとみられていた狭心症(心筋梗塞の一歩手前の病態)の患者さんが突然死してしまう、というのは、全くあり得ないことではない。

そして、「コロナ感染での在宅死亡」は「あってはならないこと」として過剰に報道されるが、それ以外の疾患で自宅で急変したことがニュースになることはない。死後に感染が発覚した例が何件かあったことも報道されたが、これについても同様だと思う。

また、コロナウイルス感染へ医療のリソースを割くことに注力しているが、多くの病院で、癌などの「不急不要の」手術は延期されており、平時であれば受けられたはずの治療が受けられないケースもある。

先日、BMJで、コロナ感染に対して多くのリソースを割くと、他の原因での死亡率が上がるのではと懸念を検討する記事が掲載された。このデータを見る限りにおいて、まだイギリスでもはっきりとした結論は出ていないようだが、日本においても、コロナ感染以外の疾患へのリソースも確保することは重要で、長期戦になるならなおさらといえる。

なお、コロナ感染にリソースを割き、他疾患の患者が減少していることによる病院の減収は顕著だ。日本では現在、多くの中小企業が危機に瀕しているが、クリニックや病院の倒産リスクも増大している。コロナ感染だけではなく、病院の倒産、税収や保険料減少などの複合要因によっても「医療崩壊」リスクは高まっている。こういう事情もあり、バランスの良い政策が求められている。

最近の「ポストコロナ」への考察では、「コロナ死のリスク」を最小限にするということを「当然の前提」として、生活の変容や社会のあり方が描かれることがあり、できるだけ直接人と接することなく暮らし、全てをオンラインですます「新しい生活」が、まるで画期的なユートピアが出現したかのように描写されたりもするが、そういった観点から抜け落ちているのは、「リスクを受け入れて共存し、これまでのように人と接する」という選択肢である。

写真AC

「コロナ死亡リスクを最小限にすることが前提」の社会モデルでは、「生活の変容を受け入れよう。その前提で、生き残る産業となくなっていく産業に分かれる」と語られるが、そういったとき、「幸福」や「価値観」の観点は抜け落ちている。「高齢者施設の親と会わない」ということが、どのような苦痛を人々にもたらすかは語られない。

また、教育の機会が奪われることにはときどき言及されるが、「友達と遊べない子ども」がどう思うかは語られない。もちろん、人為的に「不要な産業」と判断された人の苦痛も語られない。

他方、高齢者施設の親と会わない状況や、友達と会わない状況を作り出しているのは、ウイルスではなくて人間であることはあらためて言うまでもない。「コロナ死亡リスクを最小限にする」というミッションが、どこまで、幸福や価値観への介入を可能にするのか、もっと語られてもいいのではと思う。

昨日、専門家会議の会見があり、尾身副座長が、「経済の専門家も入って欲しい」と発言したが、あくまで専門家会議は、感染症についての提言をする組織である。経済や教育とも連携して全体最適解を提示するのは政治家の仕事のはずだが、現状、経済のことまでコメントせざるを得ないということは、専門家会議に過剰な負荷がかかっている状態ではないだろうか。政治がうまく機能することを願わずにはいられない。

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松村 むつみ
放射線診断医、医療ジャーナリスト

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