病んだ支援者の厄介さ

ちぬる/写真AC:編集部

先日Facebookに「正直に言おう。依存症者のために何かしたいと言ってくれる人は多いが、本当に役に立ってくれる人は少ない」と投稿したところ、「これはどの分野でも言える」と、多くの共感を頂いた内容だったので、今回もう少し詳しく書きたいと思います。

依存症支援を申し出てくれる方で、役に立つ支援をして下さる方というのは、実はなんらかの当事者性を持っている、自分に向き合える人なんですよね。

自分の弱さを認めることができ、人は支え合ってしか生きられないことを知っていたり、はたまたなんらかのどん底を経験してそこから再起した経験がある、そういう自分の中の当事者性を認めている人は、依存症問題を自分の思いこみで決めつけず、話を聞き、必要な支援をして下さるんですね。

ところが「病んだ人」が支援を申し出てくれると、とても厄介なことになります。例えば、自分の中の生きづらさや、コンプレックスと向き合おうとせず、依存症者のように社会的に偏見にまみれ、ダメ人間と蔑まれているような人達なら自分が上に立てると自分の安心を求める人、これが最悪ですね。

まず依存症者を自分の下に置き安心しようとする人は、見下している感じがありありとわかり、説教か自分の価値観の押しつけに転じます。「俺だって、こうだったんだ。」「みんなそういうことあるけれど頑張っているのよ」と最悪の場合自分の武勇伝をとうとうと語り出す始末。そしてですね「こんな面倒見の良い自分」に酔っています。

だから自分が素晴らしい人間であると実感できる「困った人」を手放そうとしません。自分で囲い込み、挙句の果ては依存症者のお金や生活管理までやりだします。こういう人は依存症問題をとても軽く考えて、「俺の言うとおりにすれば大丈夫だ」「こいつらはバカだからわかっていない。だから賢い自分が教えてやらねば!」と思っているのです。

あとは「可哀想な人を何とかしてあげたい!」と執着してしまう人もいます。誰だってそうだと思いますけど「可哀想な人」なんて思われたらプライドズタズタですからね。依存症者は自分で自分を可哀想と思っている自己憐憫地獄に陥ってしまうことは良くありますけど、他人から可哀想なんて思われた日には「ほっといてくれ!」と心はシャットダウンします。

でも可哀想病の人は、自分の優しさに酔っているのです。だからこっちは心がシャットダウンしているのに「何でも話して」などと必死で心をこじ開けようとするので、うっとうしいことこの上ないのです。でも決して自分のことは自己開示しようとしないから、安心して話すことができないんですよね。

よくいますよ、本当は「自分の親もアルコール依存症だった」なんて背景があるのに、絶対に自分のことは言わずに関わろうとする人。あれは自分がして欲しかったケアを投影しているのでしょうかね?

こう言った人たちは「善意」だと信じて疑っていないので無下にするわけにもいかずとても厄介です。

依存症の治療過程で大切なのは「正直さ」と言われているのですが、人間関係でズタボロに傷ついている依存症者が、一方的に打ち明け話をするなんてまず有り得ないです。追求されたり、恫喝されたり、説教されたりして話したことなど正直な話などではありません。

だって考えて見てください、小学校の頃から「好きな人を教え合う」なんて告白ごっこって、双方が秘密を打ち明け合うから成立するのであって、一方に無理やり言わせるならそれはタダの脅迫ですよね。

自分の心がある程度満たされていて、多様性を認められる余裕のある人でないと、病んだ人などひっぱりあげることなどできません。

また私もいろんな団体に関わっているので良く分かりますが、支援者って実は受益者なんですよね。「与えられるものが与えられている」、これが真理だと思います。だから上からじゃなく横並びの関係で「一緒にやろうよ!」というスタンスの人が良き支援者になってくださる人々です。

これから日本は様々なメンタルケアを必要とするでしょうし、経済も停滞し格差社会がますます広がるでしょうから、こういった助け合いの精神がもっと理解されるといいなと思っています。