豊臣と徳川の真実⑫ 徳川将軍と豊臣関白は両立可能

2020年12月28日 06:00

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

慶長8年(1603年)に、千姫さまの秀頼様への輿入れが実現いたしました。秀頼さまが11歳、千姫さまが7歳ですから婚約に近いのですが、茶々としてはとてもうれしいことです。

千姫=弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」(Wikipedia)

しかし、お江が江戸から身重の体にも関わらず、千姫に付き添って上洛したのですが、伏見で家康さまに大坂まで行くことは止められてしまいました。前例など持ち出されたのですが、姉妹で話などすることを嫌われたのでしょう。

お江はそのまま伏見城にとどまり、そこで、4番目の子を出産しました。姫でした。このとき、わたくしは、もし、女の子だったら養女に欲しいと申しておりましたので引き取ることになりました。

この縁組みに先立ち、家康公が征夷大将軍に任官されました。足利義昭さまは元亀4年(1573年)に京都を逐われてしまいますが、将軍でなくなったというわけではありませんでした。しかし、秀吉さまより一年前に亡くなり、その子の義尋は出家されていたので、足利宗家はあととりがいなくなってしまいました。

また、源氏の氏長者というのは、村上源氏の久我家から出ていましたのが、足利義満さまが将軍のときから足利家が占めることが多くなっていたのですが、これも、空席になっていました。

そうなると、源氏でもっとも官位が高いのは家康さまですから、まず、氏長者となられることはおかしくありませんし、東日本をほぼ治めておられるのですから、征夷大将軍となられるのも自然なことです。

そんなわけで、天下人になるかどうかは別として家康さまが将軍となられるのは、豊臣家を不安にさせることではありましたが、それほど驚天動地といったことではありませんでした。

イラストAC

また、世間では同時に秀頼さまが関白となられるのではないかという噂もあったのです。つまり、徳川家が将軍で、豊臣家が関白というのはなにもおかしいことではなかったのです。

残念ながら秀頼さまが関白というのは実現しませんでした。内大臣となられたのですから、いずれはというところでした。

8月になると京都で豊国神社の臨時祭が開催されました。秀吉さまの七回忌でしたが、京都の町始まって以来というような賑わいとなり、京都市民に秀吉さまがいまだ慕われていることを家康さまにみせつけることになりました。

朝鮮の役のことなどあり、秀吉さまが嫌われていたなどという人もいますが、それなら、この熱狂ぶりはどう説明できるのでしょうか。応仁の乱で荒れた京都を復興し、朝廷の威信を回復し、平安建都以来の大改造を施して近世都市として蘇らせてくれた恩人に対する正しい評価でした。

大名衆は徳川の目を気にして姿を見せませんでしたが、家康さまにとって不愉快な出来事であったことは間違いないことでございます。

慶長10年に、第二代の将軍に秀忠さまがなられたのは、豊臣に天下を返すつもりがない意思表示だったという人がいます。しかし、徳川家が将軍であっても豊臣の臣下であるとか、あるいは対等の立場だというのは可能ですから、そういいきるのは間違いなのでございます。

茶々が怒ったのは家康さまから秀忠さまの将軍宣下を祝いに、上洛しないかという打診があったからでございます。茶々は無理にと言うなら秀頼さまと心中するなどと物騒なことを口走ったということです。ともかく、茶々には思い詰めると極端な言葉を吐くことがあったのは確かです。

ただし、このときに、茶々が反対したのを、秀頼さまが秀忠さまに臣従することになるからだというのは、いかがなものでしょうか。のちに二条城で家康さまと秀頼さまが会見したときも、家康さまの方が官位が高応の儀礼上の配慮はありましたが、臣従といったものではありません。

二条城(vanbeets/iStock)

仮にこのときに、秀頼さまが上洛されても、公家衆と将軍が会うときと同じで、官位の高い秀頼さまが秀忠さまの下に位置することにはならなかったはずです。

むしろ、茶々が心配したのは、秀頼さまの身に何か起きるとか、そのまま、京都とか伏見に留めおかれることだったのです。その後の茶々の行動を見ればわかることですが、茶々は秀頼さまの身に何か起こるとか、自分と引き離されるというのを極端に恐れたのです。

いずれにせよ、家康さまも、少々、刺激が強すぎたと思われたのでしょう。秀頼さまを右大臣にし、六男の忠輝さまを大坂に派遣して秀頼さまに拝謁させるなど慰撫につとめられました。

この年に北の政所寧々さまは出家されて高台院と名乗られ、東山に庵を結ばれました。それまでは、三本木の屋敷におられたのですが、これは、聚楽第を壊したあとに秀吉さまが京での滞在場所として建てられたもので、いまは京都御苑のなかで、仙洞御所になっているところでございます(細かくは異説もあるが、御所周辺であることは間違いない)。

ついでですが、秀忠様の将軍宣下が行われたのも伏見城です。このころは、畿内では大坂城が豊臣の城、伏見城が徳川の城だったのです。のちに伏見城が取り壊されたの太閤殿下の城だったからだと言う人がおられるそうですが、とんでもございません。

伏見城こそ、葵三代の将軍宣下が行われた徳川幕府にとってとても大事なお城だったのです。

「豊臣と徳川の真実① 秀吉が死んで家康が最初に何をしたか」はこちら
「豊臣と徳川の真実② 前田利家と家康の真剣勝負」はこちら
「豊臣と徳川の真実③ 前田利長は自殺だったのか」はこちら
「豊臣と徳川の真実④ 上杉景勝と福島城と若松城」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑤ 大津城の春霞と虹」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑥ 北政所の方が茶々より西軍寄りだった」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑦ 石田三成はなぜ負けたのか」はこちら
「臣と徳川の真実⑧ 西軍の勝利なら大名配置は?」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑨ 家康は東日本だけを確保」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑩ 家康の母と水野・久松家の人々」はこちら
「豊臣と徳川の真実⑪ 日本中で大築城ブーム起きる」はこちら

江戸全170城 最期の運命 幕末・維新の動乱で消えた城、残った城 (知的発見!BOOKS)
八幡和郎
イースト・プレス
2016-11-04

 

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

過去の記事

ページの先頭に戻る↑