※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕
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『武功夜話』という文書の正体については、色々な説があってよく分かりませんが、なかなか本質を突いた話がたくさん出てきて、だからこそ棄てがたいというのはすでにお話ししました。
そのなかで、石田三成さまが前野長康さまに、「徳川家康さまと前田利家さまはいずれも野心家で、朝鮮遠征でも渡海を免れた。一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために全国で検地を行って財源を探しているのだが簡単でない」といったような趣旨を言ったという言葉が紹介されています。
これはとても大事なことなので少しお話ししたいのです。ここで検地といってますのは、こういうことでございます。たとえば、島津家は22万5千石ということになっていたのですが、これは、島津配下の土豪たちの自主申告を合計した数字でした。
本当は島津宗家で検地したいのですが、土豪たちの抵抗が強くて出来ません。そこで、太閤殿下の命令だということで石田三成さまが乗り込んで、検地を強行しました。そうしたところ、56万石という石高が打ち出されました。
そこで、島津家ではもともと家臣たちが申告していただけの石高の実収に相応する新領地を、先祖代々の領地と関係なく与えたのです。たとえば、鉄砲伝来で有名な種子島氏は特攻隊基地で有名な薩摩半島南部の知覧に移されました。そうすると、全体で33万5千石の土地が浮きます。
それを、島津義久さまや義弘さまなどの直轄地としたり、朝鮮などで功を上げた家臣に与えたりし、さらに、五万石については、太閤殿下の蔵入り地にしたのです。
つまり、土豪たちの犠牲のもとで、各大名が領国支配をするための財源がひねり出せ、しかも、豊臣政権も中央政府としての財源や、朝鮮で功を上げた大名に報いることができるということだったのです。
そして、私たち京極家もそういう恩恵にあずかりました。わたくしの夫の弟である京極高知も信濃飯田六万石の大名になりました。信濃の伊那郡は、武田滅亡のあと尾張守護斯波義統さまの子だと聞く毛利秀頼さまに与えられました。
本能寺の変のあと、毛利さまも武田残党の蜂起に耐えかねて尾張に逃げ帰られ、徳川家康さまがここを併合されたのですが、毛利さまはその後、秀吉さまによく仕えられて、小田原の役ののちに再びこの地を領されることになりました。
そして、毛利さまがこの年に亡くなったあとは、その姫と結婚していた高知さまが七万石のうち六万石を引き継ぎ、羽柴伊奈侍従と呼ばれることになりました。さらに、翌年には10万石に加増されます。領内でキリスト教の布教を許可し、のちに御自身もキリシタンとなっています。(のちに改宗いたしますが・・・)
このとき、一万石だけが嫡男の毛利秀秋さまに分け与えられました。秀秋さまにとっては不本意だったでしょうが、わたくしたち姉妹にとっては誇らしいことでした。
このころ、毛利輝元さまの養子であった秀元さまに亡き秀長さま(秀吉さま弟)の姫を娶せ、北政所さまの甥で養子にしていた金吾(秀秋)さまを、小早川隆景さまの跡取りに送り出されました(秀秋さまは関ヶ原の戦いで、迷った挙げ句に寝返って、家康軍に勝利を与えた方ですが、それはまたのちほどに・・・)。
また、小田原の北条氏直さまの奥方であった徳川家康公の姫(督姫)を池田輝政さまと再婚させています。
北条滅亡のおり、氏直さまは家康さまの女婿だというので助命され、ゆくゆくは伯耆一国の大名にという話もあったようですが、亡くなられてしまったので、督姫さまは未亡人になっておられたのです。
池田家は江戸時代に岡山藩と鳥取藩でそれぞれ32万石ほどの大名になりました。このうち岡山藩は、池田輝政さまの最初の奥方だった中川清秀様の娘が産んだ利隆様の子孫が継いだものです。
利隆様の夫人榊原康政さまの娘で家康公の養女であり、生まれたのが名君として知られる池田光政さまです。そして、池田光政様の夫人は千姫様と本多忠刻様の娘です。
鳥取藩のほうは、督姫さまの子である忠雄様の子孫です。分家と言うことになりますが、督姫様の子孫ですから、石高も岡山藩より鳥取藩のほうがほんの少しですが上でした。
北条氏規(北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)さまは和平に尽力し、秀吉さまとも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられました。
なお、北条家は氏直様の叔父に当たる氏規さまが許されて、のちに、河内の狭山藩を立て一万石の大名として存続しました。その子孫の北条浩さんは、池田大作氏のあとを継ぎ、創価学会の第四代会長となられ、参議院議員もつとめられておられました。
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