小学校の「性教育」事始めが意外にまともだと思った話

恩田 和

小4の娘が、小学校の保健科の授業で、「性教育」を受けてきた。文部科学省が最低限の学習内容として定める「学習指導要領」によると、小学4年生の2学期後半から3学期にかけて、数時間を割いて男女の体の変化や仕組みについて教えることになっているらしい。

101cats/iStock

子どもの話を聞くと、担任の男性教師が、普段の授業と同様に、同じ教室で男女並べて、それぞれの体の特徴について、初経(初潮のことを今はこう教えるらしい)や生理、射精や精通といった言葉を交えて説明した上で、異性に対して、これまでと違った感情を抱くことについても肯定的に捉えるよう話したようだ。子どもたちも、恥ずかしがったり冷やかしたりすることもなく、ごく自然に話の内容を受け止めて理解していたと聞き、安心したと同時に、先生に感謝の気持ちが湧いてきた。

とかく、「性教育」は右からも左からも、批判されやすい。2018年3月、足立区の中学校で行われた「具体的な」性教育授業が「過激すぎる」と一部の保守派都議がクレームし、都の教育委員会が当該校を指導したことが大きな論争を巻き起こした。一方で、ユネスコの「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」などを引き合いに、国際的に見て日本の性教育は遅れているとし、幼稚園や保育園にも性教育の導入を!と訴える声も、近年特に喧しい。要するに、やりすぎても、やらなさすぎても批判されてしまうのが、日本の学校における性教育なのだ。これでは、学校現場は萎縮する一方だろう。

SNSの発達により、子どもの性被害が急増、低年齢化する現代において、「性教育」事始めが小4では遅いという指摘には一理ある。特に、最近は意識高い系リベラルの皆さんの間で、早期からの性教育の重要性が盛んに議論され、関連本の出版が相次いでいる。だが、この場合の「性教育」とは、何も、性感染症のリスクや避妊の方法を教えるものである必要はなく、自分の体について知る、命の大切さを学ぶ、などといった概念的な教育のはずだ。学校ではなく、まずは家庭で実践するべき性教育と言い換えてもいいだろう。

つまり、日本が世界に比べて遅れているとするならば、それは学校の性教育ではなく、家庭での性教育である。世界一性教育が進んでいるとされる北欧諸国の事情には疎いが、筆者が昨年まで暮らしていたアメリカ・テキサス州の公立小学校でいわゆる「性教育」の授業が行われるのは、小学4年生の最終学期だった。5年生の泊りがけのキャンプに行く前に男女の体の仕組みについて学ぶという、まさに、先日、日本の小4の娘が受けてきたような内容の授業である。むしろ、テキサスでは男女別室で自分と同じ性についてしか学ばないので、その点では日本の小学校の方が進んでいるとも言えるのではないだろうか。

そのかわり、アメリカ人は言葉を覚えるのと同時期の2歳ぐらいから、自分の体には決して人に見せたり触らせたりしてはいけない「プライベートゾーン」があるということを、ごく自然に親から教え込まれる。日本では、水遊び場で幼児が裸になって遊んだり着替えたりするのも、男児同士がふざけてお互いの体を触ったりするのもよくあることだが、海外ではまず見られない光景だ。こうした家庭での幼い頃からの「性教育」の積み重ねが、性の話をタブー視しない健全な社会を作り上げるのだとしたら、学校での性教育をあれこれ批判する前に、各家庭でできる教育を今すぐ始めるべきだろう。

特に意識を高く持つこともなくここまで来てしまった我が家ではあるけれど、小4、10歳の冬に、娘が小学校で受けてきた性教育については、内容的にもタイミング的にも、心身の発達、発育状況に即したものだったと、概ね満足している。ただし、性教育については、自治体、学校によって取り組みは千差万別。やりすぎ、やらなさすぎ、さじ加減が難しい。だからこそ、学校任せにせず、各家庭や社会全体で考えていくことが必要だと感じている。