経済は複雑系(補足)--池尾和人

池尾 和人

先の記事への安冨渉さんのコメントにコメント欄で返答しようと思ったのだけれども、字数制限とかあってうまくいかなかったので、補足の記事にします。

「経済は複雑系」だとすると、「応用ミクロ」というような手法は成立しないはずだというロジックが、分かるようで全く分かりません。そもそも、この「成立」するとかしないとかというのが、どういう意味かよく分かりません。


そういう手法で論文を書いている人が山ほどいるのだから、事実の問題として成立していないわけがない。論理的に内的矛盾を来しているとか(来すはずだ)とかいうことかもしれません。しかし、もしそういう思弁的なことなら、私は無関心ですから、別世界に住んでいると思って下さい。

それで、複雑系をあまねく説明するような「壮大な理論(いわゆる Grand Theory )」があり得ないというのは確かだけれども、部分的理解としての「小さな説明」を着実に積み重ねていくという piecemeal engineering 的な手法は「成立」するでしょう。応用ミクロ経済学というのは、「小さな説明」の積み重ねで、Grand Theory 的な傾向のある一般均衡論とは趣がずいぶん違います。

もちろん、そうした piecemeal engineering を繰り返していって「真理」に漸進的に近づけるというような保証はありません。これは、自生的秩序の結果として社会主義が生まれたというような話がありえる以上、しょうがない。人間とか社会を理解しきれるとか元から思っていない(理解するのに限界があって当たり前と考えている)から、いまの経済学で私は実はかなり満足しています。

なお、別コメントの「銀行は5年後、10年後にどうなる」ということには、正直に言って本質的に関心がなくなりました。個別の経営次第ですとしかいいようがない。普通の企業ならそうで、業態で運命が決まるわけではない。いい経営者に恵まれれば幸せだし、そうでなければ不幸だというだけですね。

コメント

  1. oh3ho より:

    「複雑系」とラベルをつければ、物事が解決するわけでなく。ニヒリズムが一層深くなるだけです。
    折角、「希望」が話題となり、経済学が科学的ニヒリズムから離陸を始めたのに、経済にとって「希望」とは何かを、誰も語ろうとしない。
    現在の日本の経済的豊かさは、「円高」がもたらしたものである。経済学的には「円高」は結果なのかも知れないが、
    部分的理解としての「小さな説明」を着実に積み重ねていく過程で、「円高」をトレードオフの拠り所にすれば、少なくとも現在の日本経済で「希望」が語れるのではないでしょうか。社会主義的政策でも新自由主義的政策でも、中長期的に「円高」が維持できれば、日本は少なくとも統計的な豊かさを維持できるのではないでしょうか。政策の失敗や成功は、複雑系であろうと無かろうと、等しくやって来ますが、サブプライムローン破綻直前の日本経済は、そのメッキが剥がれかかっていて、円安の危機があったのではないでしょうか。そしてアメリカの敵失で「円高」になってしまった。つまり何もしなかった、できなかったこと(無策)が成功した。こんな経済学も考えられるのではないでしょうか。
    経済学素人の意見ですが…。

  2. kandekande より:

    >いい経営者に恵まれれば幸せだし、そうでなければ不幸だというだけですね。
    「経済は複雑系」と仰る割には身も蓋もない回答ですね。ところでサブプライムローン問題も各事象の関係性を無視した乗法公式の無理強いで、いわゆる「火星人のパラドックス」だと考えると単純ですね。

  3. yasutomi_ayumu より:

    最初に、わざわざ貴重な時間を割いてご回答いただいたことに対して、池尾さんに感謝申し上げます。

    『「経済は複雑系」だとすると、「応用ミクロ」というような手法は成立しないはずだというロジック』を少しだけ説明させていただきます。経済が複雑系であるということは、

    (1)多数の要素が関わっている、
    (2)多種多様な要素が関わっている、
    (3)それらの関係性は、単純な線形的関係だけでは片付かない。

    ということが暗黙に含まれていると理解しています。一方、ミクロ経済学は、(1)は間違いなく認めていますが、(2)はかなり怪しくなります。というのも、多様な消費者・企業といっても効用関数・生産関数のパラメターが違うだけでは、(2)は表現できません。(2)を認めたうえで(3)を考えると、最適化アプローチは適用不能になります。
     また、

    (4)時間発展する過程である。

    という性質をあらわに考えると、無時間的なミクロ経済学的アプローチは使えません。更に、

    (5)創造性を持つ(イノベーションはその一部)

    となると、これは現在のコンピュータシミュレーション依存の複雑系科学でさえ、ほとんど対処できない事態となります。

  4. yasutomi_ayumu より:

    ★続き
    >もしそういう思弁的なことなら、私は無関心ですから、別世界に住んでいると思って下さい。

    というお答えは非常に残念です。私はこの世に別世界があるとは信じておりません。思弁的問題は現実的問題に直結するというのが私の考えです。というのも、現実的問題と我々が認識しているものは、思弁によって対象化されているからです。たとえば「金融危機」という「問題」は、思弁によって構成されたもので、思弁を変更すると、問題は別のものになります。有効な思弁を考え出すことが、現実問題への最良の対処なのではないでしょうか。

    >人間とか社会を理解しきれるとか元から思っていない(理解するのに限界があって当たり前と考えている)から、いまの経済学で私は実はかなり満足しています。

    私は、「理解の限界」を問うことが、学問の根幹だと考えております。というのも、往々にしてそこは理解の極北なのではなく、「盲点」に過ぎないからです。

  5. yasutomi_ayumu より:

    ★続きの続き
    ミクロ経済学という体系は、ある種の盲点を共有することで成り立っており、その盲点を抱えたままで、複雑系に対処しようとすると、茫然自失してしまって、「なるようにしかならないサ」というような意味でのニヒリズムに陥ってしまうように思えてなりません。ミクロ経済学の主張に私はこのような響きを感じ取ってしまいます。

    とはいえ、私は制御主義者ではありません。それどころか、『複雑さを生きる』をごらんいただければわかりますが、「計画制御」という概念そのものの危険性を主張しております。私は(5)の人間の創造性が経済や社会を成り立たせている根幹だと考えており、それが阻害される状態を如何に解除するかを学問は明らかにせねばならないと考えております。

    その意味で、

    >いい経営者に恵まれれば幸せだし、そうでなければ不幸だというだけですね。

    というお考えには賛成いたしかねます。何が悪い経営なのか、なぜ組織や政府はまともに機能しないのか、どこが間違っているのか、何が創造性を阻害しているのか、それらは如何にして解除しうるのか、を臨床的に学際的に歴史的に考えるのが、「経済は複雑系だ」という立場から帰結すると考えております。★完